聖霊降臨後第16主日 説教

聖霊降臨後第16主日(特定18)(B年) 2024年9月8日

イザヤ35:4-7a; ヤコブ2:1-10, 14-17; マルコ7:24-37;

 今年の7月1日から、全12回のキリスト教入門コースを始めました。原則、毎週月曜日、夜7時から8時半までの1時間半で、10名前後の方が出席されています。

 名前は「キリスト教入門」なんですが、教会が正統教義として何を教えてきたかを伝えるというより、参加している方たちが、ナザレのイエスその人に出会う場になることを、私は願っています。

 前々回、8月19日のセッションでは、イエス様がその到来を宣言した「神の国」とは何かという話をしました。

 神の国は、すでに私たちの只中にあり、どこにでもあるけれども、それはまだ完成形に至ってはいないんだ。

 そして、神の国の中心には、貧しい人、困窮している人たちと、この世で苦しめられている人たちがいるんだということをお話ししました。

 イエス様の言葉に心を動かされ、彼の語る神の国の福音に希望を見出し、さまざまな人たちが、イエス様の周りに押し寄せてきました。

 その中には、世間の評判が極めて悪い人たちも沢山いて、徴税人、罪人、娼婦たちというのは、その代表格と言えます。

 でも、イエス様は、自分の周りに集まってくる人たちが、世間で評判のいい人かどうかなんてことは、まったく気にしませんでした。

 けれども、イエス様には、「絶対に許せない」類の人たちがいました。

 それは、富を蓄えて自分のためだけに使う人間と、自分は正しいから、神様に祝福されているからリッチなんだと思っている人間です。

 イエス様は、富が蓄積するところには、正当化し得ない暴力が働いていることを知っていました。財産があるところには必ず、悪があるわけです。

 もちろん、リッチな人は、「いえいえ、自分は合法的に富を蓄えたんです」と言うでしょう。

 しかし、イエス様にとっては、「だから正しい」ということにはなりませんでした。

イエス様に言わせれば、一方に、今日、この日を生きることができないほど困窮している人がいて、他方に人生を100回やり直しても使い切れない財産を持っている人を生むような「法」は、法としてなっちゃないんです。いえ、むしろ、法そのものが不正なんです。

 イエス様に言わせれば、自分のためだけに富を積み上げる人間と、自分は正しく生きて神様に祝福されているからリッチなんだと思っている人間は、貧しい人を貧しくし、苦しむ者たちを苦しめている張本人です。

神の掟と見做される律法に従って生きたとしても、それが神の国を作ることにはならない。だからイエス様は、律法に従って生活することに、関心がありませんでした。

 彼にとって、人の行動を導く原理としてもっとも重要だったものは、「憐れみの心」でした。

 この話を前々回のキリスト教入門講座の中でしたとき、参加者の方から、こんな質問が出ました。

 「イエス様には、金持ちに対する憐れみの心は無かったんでしょうか?たとえ、最初は暴力や、悪の結果としてお金持ちになったとしても、財産の維持管理は大変なんです。」

 実は、イエス様の周りには、お金持ちも少なからずいました。

 イエス様と十二弟子たちに宣教活動の拠点として家を開放し、食事を提供し、そして旅の途上で必要な食事を買うためのお金を差し出したのは、間違いなく、お金持ちのパトロンたちです。

 恐らく、イエス様自身は自分の財産を持ってはいなかったと思いますが、じゃあ彼が清く貧しく生きていたかというと、全然そんなことはありませんでした。

 イエス様は、パーティーに行って、食べて、飲んで、歌うことを楽しみに生きていた人です。

 「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」、そう悪口を言われるほど、彼はパーティー好きでした。

 そうしますと、イエス様の神の国運動を可能にしたのは、彼の言葉に共感して自分の家を開放し、パーティーを開き、喜んでお金を出す人たちだったということになります。

 イエス様の友となった金持ちと、イエス様にとって絶対に許せない金持ちとの違いは、今日の第2朗読の中にも描かれています。

 仲間が服も食料も無い時、つまり体に必要なものを欠いている時、体に必要なものを与えない信仰なんてものは意味がない。ヤコブの手紙の著者はそう言います。

神の国の福音を聞いて、イエス様の友となった金持ちたちは、不正に蓄えた富を返すことのできる人たちでした。体に必要なものを与えるために、財産を使うことのできる人たちでした。

 イエス様が許すことのできないタイプの金持ちは、不正に蓄えた富を、自分のためにしか、身内のためにしか使わない人たちでした。

 憐れみの心というのは、身内でも友だちでもなかった人の苦しみを前にして、その人の体が必要とするものを与える行動力のことです。

 それは、今日の福音書朗読のイエス様の姿にも表れています。

ティルス地方というのは、異邦人の地です。イエス様は、病を癒し、悪霊を追い出し、奇跡的な業を行っても、家族からは気が狂ってると言われ、ユダヤ社会の指導者と目される人たちからは悪霊に取り憑かれていると言われ続けて、すべてが嫌になってしまいました。

 「人を癒しても、悪霊を追い出しても、無駄だ。どうせ神の国の福音は受け入れられないんだから。」

 そう思って国外に逃亡し、引きこもっているイエス様のところに、シリア・フェニキアの生まれのギリシア人女性がやって来ます。

 そして、「どうか娘から悪霊を追い出してください」、そう懇願します。

もう神の国運動を止めようと思っていたイエス様は、この外国人女性の願いを、冷たくはねつけます。

 非常に感じの悪い、いけずなイエス様です。しかし、「食卓の下の小犬でも、子どものパン屑はいただきます」と詰め寄る女性を前に、憐れみの心が動きます。

 「その言葉で十分である」、そう言った後、イエス様はこのギリシア人女性の娘を、悪霊から解放します。

 悪霊から解放することは、身体的な苦しみから、人を解放することです。

こうしてイエス様は、彼に大きな信頼を寄せて娘の癒しを願う、この外国人女性に心を動かされ、そして彼女に癒されて、神の国運動を再開しました。

 神の国は、身内でも友だちでもない人の苦しみを前にして、憐れみの心が動き、その人の体に必要なものを与えようとするところに現れます。

 そして、神の国が現れるところに、永遠の命も現れるのです。

 聖マーガレット教会の中に、私たちの間に、神の国が現れますように。