聖霊降臨後第18主日 説教

聖霊降臨後第18主日(特定20)

2024年9月22日

エレミヤ11:18-20, 12-22; ヤコブ3:13-4:3,7-8a; マルコ9:30-37

今日は福音書朗読として、マルコの福音書9章30節から37節が読まれました。

 聖マーガレット教会では、牧師が不在でない限りは、基本的に、毎週日曜日の礼拝は聖餐式で行われます。そして、聖公会の教会では、聖餐式が行われるときには必ず、福音書朗読があります。

 ですから私たちは、「福音書があるのは当たり前」だと思っていますし、毎週毎週、礼拝の中で福音書から朗読があるのも当たり前だと思っています。

 けれども、教会の歴史の最初期には、福音書なるものは存在していませんでした。

 福音書は無くても、福音は語られていて、「イエスは主です」、「イエスは救い主です」と告白する教会は存在していましたし。

 しかし、先週もお話しした通り、教会の歴史の最初期に語られていた福音は非常にコンパクトで、たった3つの要素からなっていました。

 1) キリストは私たちの罪のために死んだ、2) 葬られた 3) 三日目に甦り弟子たちに現れた。

これが最も古い「福音」です。この最も古い「福音」の中に、「ナザレのイエスの言葉」が一つも入っていないのは驚くべきことです。

もちろん、私たちが文献学的に確認できる最も古い「福音」の中に、イエス様の言葉が出てこないからといって、初代教会の中で、イエス様について何も語られていなかったということにはなりません。

 イエス様の語った知恵の言葉(いわゆる箴言とか警句と呼ばれるもの)、そしてイエス様の語った例え話は、口伝 (oral tradition) として、教会の中で語られていたはずです。

 しかし、そうであったとしても、「福音」として語られていたものの核に、イエス様自身の言葉がないということは、やはり驚きです。

 「福音」という文学ジャンルを生み出したのは、マルコ福音書の編纂者です。文学ジャンルというのは、異なるスタイルの書き物、あるいは異なるスタイルの書物を生み出す技法のことです。

 具体的な例としては、フィクション、ノンフィクション、詩歌 (poetry)、戯曲 (drama)、ファンタジー、SF (science fiction)、ミステリー、歴史小説 (historical fiction)、伝記 (biography)、恋愛小説 (romance)、ホラー (horror)などが挙げられます。

 マルコ福音書の編纂者は、ナザレのイエスを主人公とした物語として、「福音」という新しいジャンルを生み出しました。

 そして、私たちが聖書という書物を読む上で、マルコ福音書の編纂者が、初めて、文学ジャンルとしての「福音」を生み出しということを知っていることは、とてつもなく重要なことです。

 ナザレのイエスを主人公とした物語は、人の作品です。物語の流れ、筋書きも、歴史的な出来事の記録ではなくて、作者の知恵によって生み出された創作物です。

 ですから私たちは、福音書の中に記されているエピソードを、歴史的な記録であるかのように受け取ってはならないんです。

 聖書を歴史として読むことは非常に危険な行為です。クリスチャン・シオニストとユダヤ人シオニストは、聖書を歴史として読むことで、ユダヤ人によるパレスティナの占領とパレスティナ人の民族浄化を正当化してきました。

 人の知恵が、人の創造的想像力(creative imagination)が生み出した作品を「歴史化する」という行為が、どれほど危険で、どれほどの悪と悲劇を生み出してきたか、私たちは学び、知っている必要があります。

 さて、今日の福音書朗読で読まれたマルコの福音書9章30節から37節には、3つの異なるトピックがあります。

 1つ目はイエス様の死と復活の予告(30-32)、2つ目は弟子たちの主導権争い(33-34)、3つ目は共同体の中に子どもを受け入れること (35-37) です。

 「人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」という「予告は」、マルコ福音書の編纂者による、最も古い福音の言い換え、パラフレーズだということができるでしょう。

 それに対して、弟子たちの主導権争いと子どもの受け入れという残りの2つのトピックには、マルコ福音書の編纂者が属している教会の状況と問題が反映されています。

 教会の中で勃発した主導権争いをどう解決するかという問題と、子どもを共同体の中に受け入れるべきかどうかという問題は、もともとは別々の問題です。

 けれども、マルコ福音書の編纂者は、子どもを共同体の中に受け入れるという決断が、教会の中で起こっている主導権争いを解決するための手掛かりにもなると考えました。

 子どもたちを共同体の中に受け入れるという決断へと教会を導いたのは、イエス様の言葉として教会の中で語り継がれてきたこの言葉です。

 「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(Mk 10:15)

 イエス様が宣教活動をしていたとき、子どもというのは、汚れのない純粋無垢な存在のシンボルでもなければ、あらゆる可能性、あらゆるポテンシャルに溢れた素晴らしい存在のシンボルでもありませんでした。

 一言で言えば、子どもは、取るに足らない存在、価値が無いに等しい者の象徴でした。

 当時のユダヤは、ローマ帝国の属領でしたが、ローマ帝国の法律では、生まれてきた子どもを捨てることも、幼い子どもを殺すことも、罪になりませんでした。

 それどころか、生まれてきたばかりの赤ん坊をゴミ捨て場に捨てることや、幼い子どもを殺すことは、道徳的問題にも、倫理的問題にもなりませんでした。

 それほどまでに、子どもは価値が無い存在と見做されていたんです。 奴隷には価値があります。なぜなら、奴隷は仕事をするからです。奴隷は財産を産むことのできる、貴重な財産でした。

 ところが、子どもは、うるさくて、汚くて、食うだけで、何の役にも立たない上に、育てるとなったらやたらと手間と金がかかる、「迷惑な存在」です。

 つまり、子どもは、「ひとりの人」とは見てもらえない、「周辺化された者たち」(Marginalised) を指し示すシンボルでした。

 しかしナザレのイエスは、この世の政治と経済と宗教を牛耳る者たちが目もくれない子どもたちこそ、誰よりも先に、神の国に入っていると言いました。

 「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(ὃς ἂν μὴ δέξηται τὴν βασιλείαν τοῦ θεοῦ ὡς παιδίον, οὐ μὴ εἰσέλθῃ εἰς αὐτήν.)というのは、「子どもを受け入れない者は神の国に入れない」ということです。

 ですから、イエスに倣って、神の国を指し示す共同体であることを目指す教会にとっては、世間に倣って子どもを排除するという選択肢はありませんでした。

 しかし、共同体の中に子どもを招き入れるなどという話は、当時の社会常識に照らせば、反社会的どころか、社会の秩序を乱す行為と見做されました。

 実際、4世紀になるまで、教会はローマ帝国の中で存在を認められていない、非合法地下組織でした。 子どもを受け入れる。それは単に、文字通り、成長の初期段階にある者を受け入れるというだけのことではありませんでした。

 「子ども」が象徴的に指し示しているのは、この世で最も周辺化され、最も vulnerable な人々、生存を脅かされている人々です。

 実は、2024年の東京で話されている日本語で、「子どもを受け入れない者は神の国に入れない」と言っても、それはイエス様の時代のギリシア語で「子どもを受け入れない者は、神の国に入れない」と言うのと同じことを意味することはできません。

 今朝の福音書朗読の内容を、「隣の学校の生徒を受け入れる者は、イエス・キリストを受け入れるのである」と言い換えると、元の意味が完全に失われることになります。

 なぜなら、隣の学校の生徒たちは、この日本社会の中で言えば、最も特権的な1, 2%の人々であり、生存を脅かされてもいなければ、周辺化されてもいないからです。

 もちろん私は、生徒たちに、聖マーガレット教会に来て欲しいと思っています。

 しかし重要なポイントは、現代の日本語の「子ども」は、福音書の中の「子ども」(παιδίον)と同じシンボルとしては機能しないということです。

 福音書の中で「子ども」という言葉が指し示していた、周辺化され、生存を脅かされ、非人間化されている人たちは、この時代の、この社会の中では、誰になるでしょうか?

 それを見出すことを可能にしてくれるのは、聖霊の息吹と知恵の働きです。

 私たち聖マーガレット教会が、もっとも周辺化された人々の声を聞き、最も生存を脅かされている人々をコミュニティーの中に招き、彼らと共に生きることによって、神の国をこの世に現すことができますように。