聖霊降臨後第20主日 説教

聖霊降臨後第20主日

2024年10月06日

創世記2:18-24; ヘブライ1:1-4, 2:5-12; マルコ10:2-16

 今日の福音書朗読には、1節から12節までの、イエス様がファリサイ派の人々の挑戦に応じて「離婚」について語っている部分と、13節から16節の子ども祝福の部分とがあります。

 今日は「離婚問題」を中心にお話をいたしますが、福音書の中には、イエス様が「離婚」について語っている箇所が、今日のマルコの福音書の他に、マタイの福音書に2箇所、ルカの福音書に1箇所あります。

 さらに、コリントの信徒への手紙一の7章の中でパウロは、妻は夫と別れてはいけないと「主」が命じていると語っています。この「主」はもちろんイエス様のことを指しています。

 教会はその歴史の中で、一貫して、「イエス様は離婚を禁じている」と教えてきました。

 確かに、福音書を書いた人たちも、コリントへの信徒の手紙を書いたパウロも、「イエス様が離婚を禁じた」と主張しています。

 けれども、福音書の著者の意図と、ナザレのイエスの意図とは、イコールではありません。福音書の著者の意図と、イエス様の意図との間には、ズレがあるんです。

これは非常に重要なポイントです。福音書の中でイエス様が離婚について語っている言葉には、多くのくい違いがあります。

同じことが語られているはずなのに、福音書ごとに食い違いがあるのは、著者たちが自分の意図に従って、イエス様の言葉を「加工」しているからです。

 だからこそ、歴史的なナザレのイエスの姿を回復することを目指す研究者たちは、テキストの背後にある歴史的背景を探り、福音書の行間を読み、イエス様の肉声に近い言葉を見出そうと努力をするのです。

 今日の福音書朗読の最後の所で、イエス様がこのように語ったと言われています。「妻を離縁して他の女と結婚する者は、妻に対して姦淫の罪を犯すことになる。12 夫を離縁して他の男と結婚する者も、姦淫の罪を犯すことになる。」

 しかし、イエス様がこの通りの発言をしたとは、考えられません。なぜなら、当時のユダヤ人社会では、妻が夫を離縁する権利はないからです。

 ユダヤ人社会では、離縁は男の権利です。ですから、夫が妻を離縁することはできます。そして、妻を離縁した男性が、別の女性と結婚することもできます。

 しかし、妻は、たとえ夫がDV男だったとしても、夫を離縁することはできませんでした。当然のことながら、夫のもとから去って、別の男性と結婚することもできませんでした。

 ですから、ユダヤ人社会の現実を知っているイエス様が、「夫を離縁して他の男と結婚する者も、姦淫の罪を犯すことになる」と言うはずはありません。

 また、離縁に関するイエス様の言葉は、「夫が妻を離縁することは許されているでしょうか」というファリサイ派の人々の質問に対する答えとして語られたということになっています。

 しかし、「律法」、「モーセ五書」に従って生きることを至上命題としているファリサイ派の人々が、「夫が妻を離縁することは許されているでしょうか」と質問をするとは考えられません。

 なぜなら、律法の中の申命記24章には、婚姻破棄のための手続きが示されているからです。申命記24章1節にはこう書かれています。

 「ある人が妻をめとり、夫になったものの、彼女に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、彼女に離縁状を書いて渡し、家を去らせることができる。」

 律法が、夫に妻を離縁することを許しているという事実に、論争の余地はまったくありません。

 ファリサイ派の人たちも含め、すべてのユダヤ人が、そして、すべてのサマリア人が、「男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」という創世記の言葉を知っていました。

 けれども、それが「離婚を禁じている」とは、誰も思っていませんでした。

 それどころか、バビロン捕囚後の神殿再建とユダの再興を描いたエズラ記という書物は、外国人女性と結婚したユダヤ人男性に対して、妻を離縁するようにと命じています。

 創世記の物語に出てくる最初の男と女、アダムとイヴを、人類の始祖のシンボルとして読めば、男性が何人であろうが、女性がどこの国の出身であろうが、結婚すれば一心同体になるはずです。

 それでもエズラは、ユダヤ人男性に対して、外国人の妻を離縁するようにと命じます。

 もし、アダムとイヴはイスラエル民族の始祖であって、他の民族には関係ないということになれば、この話はユダヤ人以外の人たちにとってはどうでもいい話ということになります。

 マルコ福音書10章1節から12節のエピソードは、もしこれをイエス様と同時代のユダヤ人たちが聞いていたとするなら、意味のない話です。

なぜなら、繰り返しになりますが、律法は離婚を認めているからです。

 「本当はそうじゃなかったんだ!」というイエス様の主張は、律法の権威の下で生きるのがユダヤ人だという前提を、完全に無視しています。

 イエス様一人だけが、他のユダヤ人と別のリングに立っているようなものです。

 では、イエス様は、一体なんのために「離婚」について話をしているのでしょうか。

 私は、イエス様が離婚について、婚姻破棄について話をしたのは、妻を離縁して別の女性と結婚する男たちを非難するためだったと思います。

 ユダヤ人社会での女性の地位は非常に低く、夫から離縁された女性の多くは、生活苦に陥りました。

 「妻を離縁して他の女と結婚する者は、妻に対して姦淫の罪を犯す」というイエス様の言葉は、ファリサイ派の人たちにとっては、痛くも痒くもありません。

 律法が、妻を離縁して、別の女性と結婚することを許しているのですから、それが罪だと言っている方がおかしいということにしかならないからです。

 でも、掟はすべて人間が作るものだと知っており、律法破りの常習犯だったイエス様は、「お前たちのやっていることは女性を傷つけているんだ!」と言わずにはいられなかったのだと思います。

 ナザレのイエスが宣べ伝えた神の国の土台には、食事の準備をすることと給仕をすること、 ‘service’ が据えられていました。

それは彼が、自分の宣教活動を支え、食事を作り、給仕をしてくれた女性たちから学んだものです。

 そして、イエス様を支えた女性たちの中には、夫から離縁されて、辛い目にあっている人たちも、少なからずいたはずです。

 「妻を離縁して他の女と結婚する者は、妻に対して姦淫の罪を犯す」、そうイエス様が言ったところで、ユダヤ人社会から離婚がなくなることはありませんでした。

 そんなことは、もちろんイエス様自身だってわかっていたはずです。

 それでもイエス様は、「オレは律法の定めに従って妻を離縁し、別の女性と結婚したんだ。何一つ非難されるところはないし、オレは正しい!」と言っている男たちに対して、黙ってはいられなかったのでしょう。

 だとしますと、教会のするべきことは、イエス様は離婚を許されるか、それとも許されないかという議論をすることではないのではないでしょうか。

 むしろ教会は、離婚を経験した人たちであっても、親が一人しかいない子どもたちであっても、安心して、喜びをもって、共に生きていけるようなコミュニティーになることを目指すべきだと想います。

 離婚して一人になった人も、ひとり親家庭の子も、両親を失った子も、「ここでイエス様に出会って、みんなと一緒に生きられることが幸せです」と言えるようなコミュニティー、それこそ私たちが目指すべき教会の姿ではないでしょうか。