












聖霊降臨後第24主日
2024年11月3日
申命記 6:1-9; ヘブライ9:11-14; マルコ12:28-34
早いもので、11月に入り、今年も残すところあと2ヶ月となりました。
11月1日は「諸聖徒日」(All Saints)という祝日で、聖マーガレット教会では毎年、11月1日の直後の土曜日に、午前中にはこちらの聖堂で聖餐式をし、午後には小平の教会墓地で墓前礼拝をします。
昨日は墓前礼拝日和でなかったこともあってか、10時半から行われた諸聖徒日の聖餐式に、多くの方が参列されました。
ご葬儀の説教の中で必ず言うようにしていることですが、私たちが共に集まって、世を去った者たちを覚えて祈るのは、彼らが私たちの祈りを必要としているからではありません。
それは世に残る私たちが慰めと励ましを受け、死を超える命の希望を確認するためです。
ナザレのイエスに倣って生きようとする者にとって、慰めと励ましは、十字架の上で死に、墓に葬られたナザレのイエスが、復活のキリストとして弟子たちの前に現された、という出来事に根ざしています。
この出来事は、神が始められた天地創造の物語の最終章の最後の言葉は、死ではなく命なのだということを示しています。
この世が私たちのことを忘れ去っても、神が私たちを覚えておられるが故に、天地創造の業が完成する時、復活のキリストを通して示された新しい命に私たちは与る。それが私たちの希望であり、私たちの慰めであり、励ましです。
しかし世界には、命の冒涜でしかない「死の意味づけ」や、偽りの「慰めの言葉」が溢れています。そして、命の冒涜でしかない「死の意味づけ」や、偽りの「慰めの言葉」は、ほとんどの場合、権力者から、国からやってきます。
私はずいぶん長い間、Anglicanの教会で、レクイエムと呼ばれる「逝去者記念聖餐式」が行われているのは一体どういうわけなんだろうと、疑問に思っていました。
Anglican Communionの母教会の一つ、というよりも最大の母教会であるChurch of Englandの祈祷書には「死者のための祈り」は一つもありません。もちろん、レクイエムの式文もありません。
Church of Englandの最終版の祈祷書は、362年前の1662年にイングランド議会の承認を経たものです。「公式」には、Church of Englandの神学にも信仰理解にも、変更はないことになっています。
「議会の承認を受けている」ということからもわかるように、イングランドでは、祈祷書は法律的な拘束力を持っていました。祈祷書を使わずに礼拝をしたり、祈祷書にない祈りをすれば、逮捕され、投獄され、最悪の場合、死刑になることさえありました。
そのために再洗礼派の人々が迫害にあったり、ピューリタンたちが信仰の自由を求めてアメリカ大陸に逃げるというような話にもなるわけです。
ところが奇妙なことに、祈祷書にないにも関わらず、20世紀の初頭に、Church of Englandの中で、「死者のための祈り」や「レクイエム」が「復活」したんです。
それが何故起こったのか、数年前にようやく突き止めました。今ならChat-GPTに聞けばすぐに教えてくれます。
Church of Englandの中で「死者のための祈り」や「レクイエム」を復活させたのは、第一次世界大戦でした。
二つの世界大戦はヨーロッパの帝国主義が引き起こしたもので、大英帝国はその頂点に君臨していました。
しかし大英帝国の拡大と維持には多大な犠牲が必要で、何万人もの若者たちが、塹壕の中で命を落としました。戦場で死んでいく若者たちの大部分は、世俗化の進む大英帝国の中で、教会にも行かないし、キリスト教にも関心のない人たちでした。
しかし国教会であるChurch of Englandは、大英帝国のために死んでいった若者たちを「殉教者」に仕立てあげ、「疑似聖人」とすることで、家族や友人に偽りの慰めを与えようとしました。そのために「死者のための祈り」や「レクイエム」が必要になったんです。
さらに、Church of Englandの司祭たちは、礼拝説教の中で、大英帝国のための犠牲とイエス・キリストの十字架の苦しみを重ね、若者たちが大英帝国のための死ぬことを賛美し、戦争装置(War Machine)としての大英帝国支えました。
もちろん、同じようなことは、この国でも起こりました。絶対に勝ち目のない無謀な戦争を始めたこの国の指導者たちは、天皇のために命を捧げることを若者たちに強要しました。
天皇のために死ぬことを若者たちに求めた指導者たちは、お国のために死んだ者は、英霊として靖国神社に祀られるという、偽りの慰めを語りました。しかし「靖国で会おう」と言って死んでいった若者たちは、無意味に死んだのです。
大英帝国のために死ぬことも、大日本帝国のために死ぬことも無意味です。
昨日、諸聖徒日の聖餐式の後、参列された信徒の方が、「父は戦死して、靖国に祀られているんです。一度も行ったことはありません。行きたくありません。」とおっしゃられました。
大日本帝国のために犠牲となることを強要され、さらに死んだ後にまで死者は家族から奪われ、勝手に帝国主義を賞賛する神社に祀られているわけです。
国のために、支配者のために死ぬことを求めることは、命の冒涜以外の何ものでもありません。
大英帝国の若者たちは、大英帝国の拡大と維持のために死ぬことなど求められるべきではありませんでした。
大日本帝国の若者たちも、天皇のために死ぬことなど求められるべきではありませんでした。
彼らの命には意味があります。彼らの命は、神に覚えられています。しかし、彼らの死は無意味です。国のために、権力者のために命を捧げることを要求する言説はすべて偽りであり、命に対する冒涜です。
今日の福音書朗読の中で、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という申命記6章5節と、「隣人を自分のように愛しなさい」というレビ記19章18節は、旧約聖書に記された「神の掟」の要約として示されています。
この2つの掟は、一見、とてもシンプルで、難しいことは何も無さそうです。けれども、その背後には、非常に重要な問題が2つ隠れています。
第1の問題は、「神はどんな方か」という問題です。第2の問題は、「私の隣人は誰か」という問題です。
この2つの問題に対する出来合いの答えはありません。聖書の中にも、その答えはありません。
聖書と呼ばれるコレクションの中には、66冊プラスαの書物が収められていて、多くの声がその中で響いています。神について、人について、世界について、さまざまな立場が、さまざまな理解が、交錯しています。
その中には、敵を皆殺しにしろと叫ぶ声も、寄留者を守れという声も聞こえます。
神はイスラエルの敵を呪い、滅ぼされるという声も、神の恵みと慈しみは、イスラエルを滅ぼした敵たちの上にも注がれると語る声も聞こえます。
遊女を石打にして殺せと叫ぶ声と同時に、遊女を通して神の御心がなされたと語る声も響きます。どの声を聞くべきか、聖書が教えてくれるわけではありません。
だからこそ私たちは、導きの星であるナザレのイエスその人自身に帰り続け、常に新たに、彼を発見することが必要なんです。
ナザレのイエスその人に帰ることを止めれば、私たちは容易に、命の冒涜に過ぎない「死の意味づけ」や、偽りの「慰めの言葉」に欺かれ、神を権力者と取り替え、隣人を殺すことも当然だと思うようになります。
願わくは、十字架の上で死に、墓に葬られたナザレのイエスを、復活のキリストとして現された神が、私たちをまことの希望と慰めと励ましの中に留まらせてくださいますように。
