聖霊降臨後第26主日 説教

11月17日聖霊降臨後第26主日(特定28)

ダニエル12:1-3; ヘブライ10:11-14,19-25; マルコ13:1-8

 私は小学校時代、勉強が大嫌いでした。当然のことながら、勉強をさせられる学校という場も大嫌いでした。いえ、大嫌いどころか、学校を憎んでいました。

 2,3年生の頃には毎日のように漢字の小テストがありました。問題に出された5つの漢字をすべて書けないと、放課後に居残りをさせられて、全部覚えて、書けるようになるまで帰らせてもらえません。

 毎回小テストで5点満点を取って、居残りを全くしない生徒というのは、それほど多くはなかったと思います。

それでも、3点とか4点で居残りになった生徒たちはみんな、5つの漢字をあっという間に覚えて、一人また一人と帰って行きます。

 けれども私は毎回、小テストで0点か1点、良くても2点しか取れません。居残りをさせられて、5個の漢字をすべて覚えられた日は一日もありません。毎回、最終の4時まで、一人で居残りをさせられました。

5年生になると、さらに状況が悪くなりました。今ではまったくあり得ない話ですが、超暴力教師が担任になったんです。私は特に目をつけられていて、毎日何回も、担任から殴られ、蹴られました。

 ですから私はいつも、なんで学校なんてものがあるんだ、そんなものなくなってしまえばいいのにと思っていました。そして毎晩、布団の中で、どうやったら学校を無くすことができるか、担任の暴力をやめさせることができるかを思い巡らせていました。

私にとって小学校時代は、終末の時代だったんです。

今朝の福音書朗読で読まれたマルコ福音書の13章は、聖書学者たちが小黙示録と呼ぶところです。

マルコ福音書は「古い世界が終わるんだ!」「この時代が終わるんだ!」という、「切迫する終末論」に貫かれています。

 マルコ福音書の教会がそう思ったのは、エルサレム神殿の崩壊という出来事を目の当たりにしていたからです。

 イエス様は神殿中心体制を批判し、神殿を力の源泉とする人たちと対立しました。イエス様は彼らから、神殿を冒涜する者として訴えられ、十字架の上で命を落としました。

しかし神殿中心体制を守るためにナザレのイエスを十字架にかけて殺し、自分たち迫害してきた連中は、今、神殿と共に滅び去ろうとしている。そして、ついにイエス様が帰ってくる!マルコ福音書の著者も、その背後にある教会も、そう思ったんです。

 けれども、エルサレム神殿が崩壊しても、神殿貴族のサドカイ派や、神殿で大儲けをしていた連中がみんないなくなっても、イエス様は帰ってきませんでした。世界も終わりませんでした。

 マルコの福音書の教会は間違えたんです。その後の教会も、ず~っと間違え続けました。

福音書を書いた人も、新約聖書の手紙を書いた人たちも、みんなひっくるめて、教会は終末論をめぐって、常に間違えてきました。

 教会はいつも、自分たちが終わって欲しいと思っている時代が終わったら、イエス・キリストが帰ってくると言い続けました。

 しかし、それは間違いなんです。終わって欲しいと思った時代が終わっても、世界は終わりません。キリストが帰ってくることもありません。

本当は、私たちは常に終末の時代を生きています。悪がはびこる世界に生きています。ですから、終末は何度も何度も、繰り返し繰り返しやってきます。

もちろん私たちも、終末の時を生きています。

黙示録の象徴に訴えて語るなら、私たちは今、アメリカという獣とその同盟者たちが、幾百万の命を犠牲にして、血の海の中に築き上げた世界秩序、大バビロンの最終ステージを迎えています。

 誤った終末論を振りかざして、大バビロンの手下となってきた教会も、終わりの時を迎えています。しかし、それは悲しむべき時ではありません。

むしろ、教会が歴史の中で積み上げてきた、ありとあらゆる重荷を捨て去って、ナザレのイエスの単純さへと帰る、絶好のチャンスです。

 ナザレのイエスが語った神の国の福音を聞いて、彼に倣って生きることは、悪しき時代が終わるようにとただ祈るだけでもなければ、ただその時を待つだけでもありません。

私たちは、いつの時代にも、そこで働いている悪の力を終わらせるために、生きることを通して、神の協力者となります。

 「キリストが再び来られる」というのは、象徴的表現です。

それが意味するのは、ナザレのイエスが復活のキリストとして弟子たちの前に現れたという出来事が、被造物全体の出来事として起こるということです。

 要は、ナザレのイエスに起きたことは、世界全体に起こるんです。「再臨」というのは、神が始められた天地創造の業の完成を象徴する表現です。

 その時に私たちは皆、新しい命を生きる新しい体を持って現れるんですから、「キリストも」再び現れはするでしょう。

 しかし私たちは、トランプ支持者の福音派のように、イエス・キリストが再びジャジャーンと現れるのを待っているわけではありません。

そうではなくて、私たちは天地創造の業の完成に向かって、神と共に働き続ける者として、この時、この場所で、生かされているんです。

 先週の木曜日、花水木の会に、聖愛教会牧師のイム・ヨンイン先生が来て、話をしてくださいました。

質疑応答の中でイム先生は、「教会には戦略が必要だ」という話をされたそうです。

漁師は適当にあっちこっちに網を打つわけじゃない。どの季節に、どの時間帯に、どこに網を打って、どんな魚を取るか。ちゃんと戦略を立てているんだ。舟に乗り込んだ漁師たちは、それぞれが戦略を理解して、自分の役目を果たすんだ。

そんなお話をされたそうです。

 イエスに倣って終末の世界を生き、悪を暴き、そして悪を終わらせるために働くようにと召された私たちにも、戦略が必要です。

 イエス様に倣って悪と戦おうとする全ての者たちにとって、暴力によらずに悪と戦うための戦略が、絶対に必要不可欠です。

 「イエス様は暴力によらずに悪と戦った」。ここから目を離した瞬間から、私たちは悪をもって悪と戦おうとします。暴力をもって敵を滅ぼす近道を選ぼうとします。

 しかし、それは滅びの道です。イエス様に倣って、神の天地創造の業の協力者になる道ではありません。

 ナザレのイエスに倣って悪と戦うための出発点は、彼が直視した現実を直視することです。悪の支配がどこから始まるかを識別し、それを暴くことです。

私たちに必要なのは、祈りだけではありません。終末の世界を知るための学びが必要です。その上で、ナザレのイエスに倣って暴力を放棄しつつ、悪と戦い、悪を滅ぼす戦略を見出すことが必要です。

 一人でそれをすることはできません。一人では、私たちは絶望します。

 しかし私たちには、ナザレのイエスが語った神の国のヴィジョンによって結ばれた仲間たちがいます。

皆さん、ぜひ終末の世界を知るための勉強会を、学びの機会を、沢山、教会の中に立ち上げてください。その上で、深い学びに裏打ちされた、戦略を立ててください。

 それを実践に移すことを通して、私たちはイエスの弟子として、神と共に働き、神の国のヴィジョンに従って、世界の進行方向を変え、世界をつくり変え続けていきます。

 ナザレのイエスを通して、「終わりの時」の生き方を示された神が、私たちをも天地創造のわざの協力者として整え、用いてくださいますように。