降臨節第1主日 説教

2024年12月1日降臨節第1主日(C年)

エレミヤ33:14-16; Iテサロニケ3:9-13; ルカ21:25-36

 ある所に、シモンくんという男の子がいました。シモンくんのお父さんは、いつも朝早くに仕事に出て、夜遅くに帰ってくるので、小学1年生のシモン君は、なかなかお父さんに会うことができません。

 お父さんは週末も仕事をすることが多いので、シモンくんがお父さんに会うことができるのは、月にたった数回です。

 ある土曜日の朝、シモンくんは仕事に行くお父さんの姿を見かけ、走り寄ってこう言いました。

 「ねぇ、お父さん。夏休みもどこにも一緒に行けなかったんだよ。今度、遊園地に連れてってよ。」

 するとお父さんは、「わかった。じゃあ、来月、どこかの土曜日に、一緒に遊園地に行こう」と約束をしてくれました。それを聞いて、シモンくんは大喜びしました。

 月が変わり、シモンくんは満面の笑みで、仕事に出かけるお父さんをつかまえて聞きました。

 「ねぇ、お父さん、遊園地に、いつ連れてってくれるの?」

 お父さんは、「ごめんな、今月はどうしても仕事が休めないんだ。来月は絶対に行こう」と言いました。

 シモン君は、「うん、わかった。じゃあ、来月は絶対だよ」と答えました。そしてシモンくんは、忍耐強く、月が変わるのを待ちました。

 今月こそは、お父さんと遊園地に行けると信じて、シモンくんは最初の土曜日の朝、お父さんを待ち伏せして、聞きました。

「お父さん、約束だよ。遊園地にいつ行く?」するとお父さんは答えました。「ごめんな、シモン。今月も土曜日、仕事を休めないんだ。来月は絶対に連れて行くから。今度こそ本当に約束するから。」そう言って、お父さんは家を出ました。シモンくんは泣きそうになるのを必死にこらえながら、お父さんを見送りました

 次の月の最初の土曜日、シモンくんはうつむいて目を伏せたまま、声を絞り出して、いつものように仕事に出かけようとするお父さんに尋ねました。

 「ねぇ、お父さん。今月は遊園地に行けるのかな?」お父さんは答えます。

 「ごめん、シモン。年明けまで、土曜日も仕事を休めそうにないんだ。来年になったら、忙しくなくなるはずだから、そうしたら遊園地に行こう。」

この日以来、シモンくんはもう、お父さんと遊園地に行くことはないと悟りました。けれども、お父さんは、たまにシモンくんと顔を合わせると、「いつか必ず、遊園地に連れて行くから」と、言い訳のように繰り返しました。

大学生になったシモンくんは言います。「オレの父親は、仕事だ仕事だって言いながら、実は家族をほったらかして、遊び呆けてる男だったんです」。

そう聞いたら、皆さんは彼に、どんな言葉をかけるでしょうか?

 先週の日曜日、教会の暦は終末論で始まって終末論で終わるように作られているとお話しをしました。

 それを証明するかのように、今日、降臨節第1主日の特祷も、聖書朗読も、終末論的なシンボルに溢れています。

 福音書朗読の箇所には、「人の子が力と大いなる栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」、「あなたがたの救いが近づいている」、「神の国は近い」、「天地は滅びる」といった言葉が並びます。

 そして、福音書朗読はこう締め括られます。「あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」

 降臨節の伝統的 intention, その季節に想定されているテーマは、「忍耐をもって待つこと」です。

 Advent(降臨節)は、クリスマスの準備期間として設定されていますから、うっかりすると「忍耐してイエス様の誕生を待つんだ」と思うかもしれません。

 しかし、降臨節に想定されている待つ対象は、イエス様の誕生ではなく、再臨です。

 ここで、私たちにとっての大問題が現れます。降臨節第1主日から始まる、いわゆるクリスマス・シーズンは、「闇を照らす光の物語」の季節です。

 ところが、今、世界中がその中に放り込まれている、人類の滅亡をもたらすほど巨大な闇は、教会が生み出した闇です。

もう少し神学的に言うと、核戦争一歩手前という現在の危機は、プロテスタンティズムの中から生まれた、黙示録の歴史化という闇によってもたらされました。ですから私たちは、教会が自ら生み出した巨大な闇の中で、一体、どんな光を見ようとするのかと問う必要があるのです。

 冒頭の物語の父親は、空虚な約束を繰り返し続け、世界の人々からの信頼を失い、闇を深めてきた教会の姿を表しています。

 今、世界中で、教会の生み出した巨大な闇によってもたらされた悲劇を前に、多くの市民が立ち上がっています。それと反比例するかのように、多くの教会が沈黙しています。

 しかし、自ら生み出した闇に向き合わないキリスト教にも、教会にも、未来はありません。教会には、「古き良き時代」という幻想に浸っている余裕はないんです。

 もしかすると神は、これまでのキリスト教を、そして多くの闇を生み出してきた教会を、一旦終わらせようとしているのかもしれません。

それでも私たちには希望があります。なぜなら、キリスト教の負の遺産、教会の過ちや生み出してきた多くの闇の向こうに、ナザレのイエスがいるからです。そして神は、この人を、希望のしるしとして、私たちに示されたからです。

 教会が生み出した闇を見つめながら、ナザレのイエスに帰り、キリスト教を刷新し、Jesus Movementの共同体として教会を再生する。

 それは簡単なことではありません。けれども、日本の教会は、その働きを始めるにあたって、とても有利なポジションにいる。そう私は思っています。

日本の教会は、一度たりとも、権力構造の一部となったことがありません。国家権力の暴力を支持したことはあります。

けれども、Church of Englandや、アメリカの教会のように、教会が軍隊と一体化し、暴力装置として機能したという歴史はありません。

日本の多くのクリスチャンは、軍隊に従軍チャプレンがいることに違和感を感じますが、欧米の教会にとって、それは常識です。幸いなことに、日本の教会には、直接に暴力を行使したという歴史がないんです。

 巨大な闇を生み出した終末論と向き合い、それにケリをつけるという動きは、恐らく、西洋の教会からは出てこないでしょう。

 でも、日本の教会には、それができるのではないでしょうか。

 もちろん私たちには、西洋の教会が生み出した巨大な闇を、一気に吹き払うことなどできません。

 さらに私たちの足元には、クリスマスの季節を孤独に過ごす留学生や出稼ぎの外国人、ひとり親家庭の子どもたちや、年末も年始も関係なく働かなければ食い繋ぐことのできない人たちが置かれている闇もあります。

しかし、今、闇の中にいる人たちにとって、「希望の光」となる何かを、ナザレのイエスの言葉と、業を、生涯の中に見出し、それを生きることができれば、神は私たちを、Jesus Movementとして再生してくださるはずです。

 このクリスマスの準備の時が、深い闇の中で、ナザレのイエスその人を再発見する時となりますように。