降臨節第2主日 説教

12月08日(日)降臨節第2主日(C年)

バルク5:1-9; フィリピ1:3-11; ルカ3:1-6

 今日の福音書朗読の最初の2節には、ティベリウス、ポンティオ・ピラト、ヘロデ、フィリポ、リサニア、アンナス、そしてカイアファという7人の名前が出てきます。

 ここに名前が上がっているのは、当時のローマ帝国の中で、そして神殿を中心とするユダヤ人社会の中で、権力の中枢にいる人々です。

 ルカ福音書の4章に記されている「荒野の試み」の物語は、権力を求める者たちを、悪魔と手を結ぶ者たちとして描いています。

4章6節と7節で、悪魔はイエス様にこう言っています。「6この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」

 今日の福音書朗読の冒頭に名前が上がっている7人というのは、悪魔と手を結び、人々を抑圧と苦難の中に陥れ、闇の力によって世界を支配しようとする者たちです。

 この7人の中から、福音書の物語の中で大きな役割を果たす4人をご紹介いたします。

ティベリウスは、バプテスマのヨハネやイエス様と同時代のローマ皇帝です。彼はアウグストゥスの死後、紀元後14年に皇帝になりました。イエス様がこの世に生き、宣教活動をしていた時代のデナリオン銀貨には、「神なるアウグストゥスの子、皇帝ティベリウス・アウグストゥス」と刻まれていました。

 ポンティオ・ピラトは紀元後の26年から36年までユダヤ地方を治めたローマ総督で、その残虐さで有名でした。イエス様を十字刑に処することを決定したのも、この人です。

 ガリラヤの領主ヘロデは、ヘロデ大王の息子の一人、ヘロデ・アンティパスのことです。バプテスマのヨハネは、このヘロデ・アンティパスによって、獄中で首を切り落とされました。

アンナスは、紀元後6年から15年までエルサレム神殿の大祭司の地位にありました。紀元後の18年から36年までは、アンナスの娘婿であるカイアファが大祭司でしたが、アンナスは大祭司一家の長として、相変わらず、神殿中心体制の中で大きな力を握っていました。

 十字架にかけられる前にイエス様が逮捕された時、このアンナスの前に引き出されました。(ヨハネ18:13)

 今朝の福音書朗読の後半部分、4節から6節は、イザヤ書40章3節から5節の引用です。

 これは、イザヤ書40章の文脈では、国を失い、バビロンに捕囚として連れて行かれたユダの人々に、祖国への帰還と復興の希望を告げる言葉です。

旧約聖書の預言者と呼ばれる人々は、豊かさと特権を享受しながら、民衆を抑圧し苦しみの中に捨て置く社会のエリートたちに対して、神の裁きと滅亡の日を宣告します。

 それと同時に、預言者は「暗闇と死の陰」にいる民衆に対して、慰めと、解放の希望を語ります。

 「ルカ」は、闇を作り出す者たちを名指ししながら、彼らによって苦しめられ、虐げられ、「暗闇と死の陰」に捨て置かれた人々の慰めと解放を告げる「最後の預言者」(16:16)として、バプテスマのヨハネを描いています。

 しかし、彼は最後の預言者とはなりませんでした。バプテスマのヨハネが最後の預言者とならなかったのは、ルカ福音書の著者が思い描いていたような「解放」も「救い」も、やって来なかったからです。

 世界は滅びず、今も続いています。世界には、今も悪があり、闇を作る者たちがいます。この世界が続く限り、そこには闇があり、闇がある限り、預言者の時代は終わりません。

世界が完全に悪の力に飲み込まれてしまうのを防ぐためには、預言者が必要なのです。ナザレのイエスその人も、暗闇を作る者たちの偽善を暴き、民衆を抑圧し苦しめる者として、彼らを告発しました。

イエス様は、この世の闇を生み出しているのは、神の掟に従って歩まない罪人でも、汚れた者たちでも、徴税人たちでもないことを知っていました。彼は、闇を作る者たちが、ユダヤ社会の政治と経済と宗教の中心にいることを知っていました。

 そして神は、預言者であったナザレのイエスを、「希望の光」として現されました。

 預言者の伝統に従って言えば、悪魔と手を結んで闇を作り出す者たちと、彼らによって闇の中に置かれている人々とを識別することが必要です。ここが今日の説教の、最大のポイントです。

 それをしなければ、私たちは闇を光と取り違えます。希望の光を見出すことと、闇を作り出す者たちを告発することとはつながっているんです。

 18世紀から今日に至る歴史を振り返れば、教会が「福音」として語ってきたものは、搾取と抑圧と苦難の永続化を正当化する道具であり、教会は闇を作り出す者たちの同盟者でした。

今や、教会が語ってきた「福音」は、信じるに値しないものから、聞くに値しないものとなりつつあります。

ナザレのイエスを希望の光として再発見するためには、闇を作り出す者たちと、彼らによって闇の中に投げ込まれている人々とを識別しなくてはなりません。

 この降臨節に、ナザレのイエスを希望の光として見出すために、17世紀の偉大な預言者の声に、耳を傾けたいと思います。

 この偉大な預言者は、哲学者であり、数学者であり、物理学者であり、そして神学者であった、ブレーズ・パスカル (Blaise Pascal) という人です。

 彼は『 パンセ』の「正義、力」と題された断片の中で、このように語っています。

“正しい者に従うことは正しく、最も強い者に従うことは必然的である。力なき正義は無力であり、正義無き力は暴虐である。

 力なき正義は反論に晒される。なぜなら常に悪者が存在するからである。正義無き力は非難される。それ故、正義と力とを共に据えねばならない。

 このためには、正しい者が強いか、あるいは強い者が正しいかのどちらかでなくてはならない。

 正義は論争の種とならざるを得ない。力はあまりにあからさまであるがために、議論の余地を残さない。

 結局、人々は正義に力を与えることができなかった。何故なら、力は正義に反論し、正義を不正であると言い、自分が正義であると言い張ったからである。

こうして、正しい者を強い者とすることができないがために、人々は強い者が正義であることにとしたのである。”(パスカル『パンセ』断片298「正義、力」)

 私たちは、終わることのない終末の時を生きています。それは「強い者が正義」とされる時であり、終末の時代の正義は暴力です。

 世界が深い闇に沈む中で降臨節を迎える私たちが、ナザレのイエスの語った神の国の福音を、この世の正義を乗り越える光の物語として見出すことができますように。