










12月15日(日)降臨節第3主日
ゼファニヤ3:14-20; フィリピ4:4-7; ルカ3:7-18
先週、13日の金曜日、53歳にして初めての貴重な体験をしました。
小学校の聖書科の先生から、1年生の聖書の時間に、クリスマスのお話をして欲しいと頼まれて、授業を担当させてもらったんです。
日曜学校での話は何度もしたことがありますが、小学校の授業で話をするというのは初めてのことでした。
25分くらい私がクリスマスの話をして、その後は質問コーナにしたんですが、次から次に質問が出て、まったく止まりません。前の質問に答えている間に別の質問が出てきて、何の質問に答えているのかわからなくなるほどでした。
2クラス続けて担当することになっていたんですが、1クラス終わったところで、生徒たちのエネルギーに圧倒されて、ヘトヘトになりました。
まぁ、どうにか乗り切りはしたんですが、53歳の体力の衰えを痛感させられる経験となりました。
私は小学生たちにも、「クリスマスは、神様が、闇を照らすまことの光であるイエス様を与えてくださったお祝いです」というお話をします。
「世界にも、私たちの心の中にも、たくさんの暗いところが、闇があります。でも神様は、その闇を照らすまことの光として、イエス様を私たちに与えてくれました。」
「しかも、その光は、今も、闇を照らし、私たちの行く道を照らしてくれます。だから、私たちは、毎年毎年、クリスマスをお祝いするんです。」小学校でも、そんな風に話をしました。
けれども、話を終えた後に、この小学校に来る生徒たちは、「イエス様が照らす闇」を経験することはあるんだろうかと、ふと考え込みました。
もちろん、どれほど経済的に恵まれていても、何不自由ない境遇であったとしても、クラスメートから無視されたり、いじめられて辛い思いをしたり、苦しむことはあるでしょう。
けれども、イエス様の時代に、9割を占める民衆がその中に置かれていた暗闇は、「当たり前」のものが奪われて、明日も生きていられるかどうかわからない、そういう暗闇でした。
借金の形に下着をみんな取り上げること、規定以上の税金を取り立てること、兵士が市民からカツアゲをすること。それらは皆、貧しい者たちから、文字通り、命を奪うような行為でした。
ヨハネが告げ知らせた福音は、禁欲的な福音です。ヨハネは、自分の語る言葉に耳を傾ける人たちに対して、人の命を危険に晒し、死を招くような行動を止めるようにと求めました。
ヨハネの禁欲的な福音に対して、ヨハネと袂を分かったイエス様が語った福音は、より積極的な福音でした。
イエス様は、人の命を脅かすような不正から足を洗えとは言いませんでした。むしろイエス様は、闇の中に置かれた人たちに、希望の光を届けるようにと言いました。
それが具体的に意味しているのは、「当たり前」に生きることができず、明日がないかもしれない人たちと共に、豊かに、喜びをもって、平和に生きる道を歩むことを、弟子たちに求めたんです。
ヨハネの弟子たちの集団は、不正を退けて、禁欲主義的な、修道的生活を目指す個人の集まりです。
それに対して、イエス様が目指したのは、弟子たちを祝宴の共同体、共にパーティーを楽しむコミュニティーとして作り上げることでした。
イエス様が語られた神の国に根差した希望は、願望でも、夢でもありません。
「いつかフェラーリに乗りたい」とか、「モナコに移住したい」とか、「ドゥバイにリゾートマンションが欲しい」というのは願望であって、希望ではありません。「宇宙飛行士になりたい」とか、「アイドルになりたい」という「夢」も、イエス様の語る神の国の希望とは関係がありません。
イエス様が示した希望は、もっと、ずっと、ささやかなものでした。
ナザレのイエスが述べ伝えた神の国に根差した希望というのは、「当たり前に生きられる」ということです。そして、「また明日がくる」と当たり前に思える、ということです。
闇の中に置かれた人たちというのは、「当たり前」を奪われて、「明日」が見えない人たちです。
イエス様が神の国の福音を通して示した希望は、あまりにも慎ましやかで、あまりにも当たり前すぎたので、富んでいる人たちや、特権を享受している人たちにとっては、何の魅力もなかったでしょう。
けれども、生きていられることも、明日が来ることも、当たり前ではない人たちにとっては、大きな希望でした。
オランダに本拠地を置く2つの救援団体が、ガザに危機管理トレーニングセンターを設け、504人の子どもたちの心の健康状態について、聞き取り調査を行いました。その結果によれば、504人中484人、96%の子どもたちが、自分の死が差し迫っていると感じているそうです。
ガザの子どもたちにとって、生きていられることは当たり前ではありません。そして、ほとんどの子どもたちは、明日は来ないだろうと思っています。
世界の最も深い闇が、すべてを飲み込むブラックホールのような闇が、ガザにポッカリと口を開けています。
イエス様が示された神の国の福音の希望は、闇の中に置かれた人にとっての希望であり、解放です。
私たちが、最も深い闇の中に置かれた人たちから目を背けたら、福音を福音として認識できなくなります。
私たちが闇を見つめるのは、闇の中に留まるためでも、闇をそのままにしておくためではありません。闇を見つめるのは、希望を希望として識別し、闇の中に、光を輝かせるためです。
ナザレのイエスが私たちに与えた希望の光を、闇の中に輝かせるとき、私たちはこの世にあって、神の国を生きることになります。
この国にも、闇の中に置かれた人たちがいます。生活に困窮し、仕事も見つからず、自分の臓器を売ることを考えている人がいます。
自分に生命保険をかけて、自殺とバレないように死んで、家族のために保険金を残そうとする人がいます。
子どもの食事をテーブルに乗せ、教育費を捻出するために、体を売る女性がいます。
今日も路上で眠り、年末も炊き出しに並ぶ人たちがいます。
毎日、誰とも会わず、誰とも言葉を交わさず、一人ぼっちで食事をし、孤独に死んでいく高齢者がいます。
私たちには、すべての暗闇の中に光を灯すことなどできません。
でも私たちには、この場所が与えられています。仲間もいます。もし私たちが、この場所を拠点に、仲間と共に、経済的な祝福と、時間とを少しずつ献げたなら、できることは沢山あるんだと思うんです。
そこで皆さんにお願いがあります。説教を聞きっぱなしにしないで、礼拝の終わったあと、食事のとき、どんな機会でも結構ですから、今自分が気になっている「闇」について、仲間と分かち合ってください。
仲間と一緒にできる「何か」がないか、話をしてみてください。そこから新しいアイディアや、新しい知恵や、新しい働きが出てくるかもしれません。
そして、「こんなことだったら、教会でできるじゃないか!」と思いついたときには、ぜひ私に知らせてください。
とどのつまり、Jesus Movementとして私たちが目指すのは、「私が誰かを支え、私が倒れた時には、誰かが私を支えてくれる」そういうコミュニティーになることです。
それが、神の国を指し示すということであり、天地創造の完成を先取りして生きるということです。
世界が深い闇に沈むこの時、「今日も生かされ、明日を迎えられる」当たり前の希望を、ナザレのイエスに見出し、その希望を私たちが生きる者となれますように。
