12月18日(水) 高校礼拝説教

ルカ3:7-18

クリスマスは、神様が、この世の闇を照らす光として、イエス様を与えてくださったことを祝うときです。

しかし、イエス様を光として見出すのは、闇の中に置かれた者たちだけです。闇を作り出す人たちに、光は見えません。

イエス様の時代に、9割を占める民衆がその中に置かれていた闇は、「当たり前」のものが奪われて、明日も生きていられるかどうかわからない、そういう闇でした。

ヨハネは、自分の語る言葉に耳を傾ける人たちに対して、人の命を奪うことにつながるような行動をやめるようにと、自分の弟子たちに求めました。

しかしイエス様は、闇の中に置かれた人たちに、希望の光を届けるようにと言われました。

もう少し具体的に言うと、「当たり前」に生きることができず、明日がないかもしれない人たちと共に、豊かに、喜びをもって、平和に生きることができるようなコミュニティーを作れと言われました。

イエス様が語られた希望というのは、私たちの願望とは違います。

 「冬休みはディズニ・シーでホテルに泊まって、そこで1週間過ごしたい」とか、「ドゥバイに別荘が欲しい」というのは願望であって、希望ではありません。

イエス様が私たちに与える希望は、もっと、ずっと、ささやかなものです。ナザレのイエスが神の国の福音として語った希望は、「当たり前に生きられる」、そして当たり前に「また明日がくる」という希望でした。

闇の中に置かれた人たちは、「当たり前」を奪われ、「明日」が見えないすべての人たちです。

イエス様が示した希望は、慎ましやかで、当たり前すぎて、金持ちや、特権階級、つまり闇を作り出している人たちにとっては、何の魅力もありませんでした。けれども、生きていられることも、明日が来ることも、当たり前ではない人たちにとっては、大きな希望でした。

この国にも、闇の中に置かれた人たちが沢山います。生活に困窮し、仕事も見つからず、自分の臓器を売ることを考える人がいます。

子どもの食事をテーブルに乗せ、教育費を捻出するために、体を売る女性がいます。今日も路上で眠り、年末も炊き出しに並ぶ人たちがいます。毎日、誰とも会わず、誰とも言葉を交わさずに、一人ぼっちで食事をし、そして死んでいく高齢者がいます。

私たちが生きているのは、一人の金持ちを宇宙旅行に行かせるために、99人を貧困状態に放置しておくことが当たり前の世界です。

もしこの世界の中心に巣食う深い闇が見えないとするなら、それは私たち自身が闇を作り出す者たちの一部だということです。

自分と家族がクリスマス休暇をディズニーランドで過ごせれば、どれほど多くの人が闇の中で苦しんでいてもかまわないとするなら、そんなクリスマスには何の意味もありません。

もし、クリスマスを意味のある時として過ごすことを皆さんが願っておられるなら、ぜひ、今年のクリスマス・シーズンは、闇の中に置かれた人々に、心を寄せてください。

そのときこそ、私たちは、闇の中に輝くまことの光として、イエス様を見出すことができます。

そして、皆さんが闇の中に輝く光であるイエス様に出会ったなら、今度は皆さん自身が、世の闇を照らす光とされます。絶望の中にいる人に、希望を与える人になります。

今年のクリスマスが、皆さんにとって、闇を照らすまことの光に出会うときとなりますように。