降誕日主聖餐式 説教

2024年12月25日(水)降誕日聖餐式

イザヤ52:7-10; ヘブライ1:1-4; ヨハネ1:1-14

 皆さん、クリスマスおめでとうございます。

 私は今日、聖マーガレット教会の聖堂に集まって降誕日の礼拝を献げ、共にクリマスを祝うことのできる喜びと同時に、深い悲しみを感じてもいます。

 2020年のクリスマスの礼拝を覚えておられる方がいらっしゃるかどうかわかりませんが、2020年は新型コロナのパンデミックが勃発した年です。

 その年の3月8日から公祷休止となり4ヶ月に渡って、共に集まって礼拝を捧げることができなくなりました。

 7月の第1主日から、公祷休止は一応解除となり、私たち聖マーガレット教会は、7月5日の第1主日から、共に集まって礼拝することを再開し、クリスマスの礼拝も共に捧げました。

 その年は、聖堂の収容人数を60名に限定して、3つのイヴ礼拝と、2つの降誕日の聖餐式を行いました。

 しかし、それは同時に、再度の公祷休止を宣言しなければならない時でもありました。

 2020年のクリスマス礼拝の後、教会は再び沈黙の期間に入りました。共に集まっての礼拝が再開されたのは、2021年の7月4日のことでした。

 共に集まって祈りと讃美を捧げることができないコロナ禍の苦しさを味わった私たちは、「一つに集まって礼拝を献げる」という、教会にとっては当たり前の営みが、とてつもなく大きな恵みであり、祝福であることを学びました。

 それだけに、このようにして一つに集まって、皆さんと共にクリスマスを祝うことができるということは、大きな喜びであり、大きな祝福です。

 しかし私たちは、コロナ禍後の、今年のクリスマスも、深い世の闇の中で迎えることになりました。

 昨年の降誕日の礼拝でも、クリスマスの街と呼ばれるパレスチナのベツレヘムで、クリスマスを祝うすべての礼拝が中止され、パレスチナの人々は、深い闇の中でクリスマスを過ごしたことをお話ししました。

 ベツレヘムの福音ルーテル・クリスマス教会では、人が生活できないほどに破壊されたガザの様子を象徴して、教会の聖堂の中に瓦礫を積み上げ、その上に幼子イエスの像を据えました。

そして、世界中の人々に、クリスマスの意味を問い直すようにと訴えました。しかし、世界は動きませんでした。西洋のほとんどの教会も、声を上げませんでした。

 ベツレヘムでは、今年もクリスマスを祝う礼拝がすべて中止され、福音ルーテル・クリスマス教会の聖堂の中には、再び瓦礫の山が積み上げられ、その上に幼子イエスの像が据えられました。

 牧師のムンディール・イスハークは、「虐殺が止まらぬまま、私たちが再びクリスマス迎えることになったことが、本当に信じられない」と、再び世界に向けて声を発しました。

 私たちアングリカンは、クリスチャン・シオニズムというイデオロギーを生み出し、植民地政策を通してパレスチナ人の民族浄化を推し進め、偽りのイスラエルとして、シオニスト国家を生み出した大英帝国の教会の流れを汲む者たちです。

 大英帝国が残した負の遺産はアメリカ帝国に引き継がれ、西洋世界の罪を負わされたパレスチナの人々は、1世紀を超えて、深い闇の中に置かれ、死の陰の谷を歩んでいます。

私は毎晩、ガザでその日に虐殺の犠牲となった人々の凄惨な映像を確認してから、眠りにつきます。それは、この世の闇から、私たちが作り出している闇から、目を逸らしてはならないと思っているからです。

私は、アドヴェントに入ってからずっと、こう問い続けてきました。パレスチナの人々の犠牲を前にして、大英帝国を支えた教会の流れに属する自分に、クリスマスを祝う資格などあるのか、と。

 その中で私が辿り着いた一つの結論は、パレスチナの現実を直視しながら、クリスマスを祝わなければならない、ということでした。

今日のパレスチナには、この世の最も深い闇が体現しています。ガザを見れば、人は底なしの闇の中に堕ちていけるということがわかります。底なしの闇の中に沈んでいく人間は、殺戮そのものを喜ぶ、悪魔的な存在とすらなれることがわかります。

 そして、私たちがクリスマスに到来を祝うまことの光は、その漆黒の闇を照らす光なのです。

 世の闇を照らす光は、ローマの皇帝の宮殿にも、ユダヤのヘロデの宮殿にも現れません。ワシントンにも、ロンドンにも、テルアビブにも、東京にも現れません。

 世の闇を照らすまことの光は、ナザレのイエスが生き、神の国を宣べ伝え、十字架につけて殺され、復活のキリストとして弟子たちに現れた場所に、今現在のパレスチナに、ひっそりと現れています。

そこには、非人間化され、獣のように扱われ、容赦無く殺されていくパレスチナの人たちを支え、彼らに人としての尊厳と、人としての喜びを取り返すために、文字通り、命懸けで働いている人たちがいます。世の深い闇を照らすまことの光が、今、この時も、彼らの中に輝いています。

 ナザレのイエスは、血縁も、家柄も、ステータスも、経済力も、まったく違う人たちが共に集まって、食卓を囲むパーティーの中に、本当の喜びを見出しました。

 そして彼は、神様はすべての人を巻き込む大パーティーに向かって、世界を動かしていると確信したのです。

 神様が与えてくださった恵みを分かち合うところに現れる、喜びに溢れた祝宴、大パーティー。それを、ナザレのイエスは、神の国と呼びました。

 その神の国の光が、明日、生きていられるかどうかもわからないような深い闇の中に置かれた人たちと共に生き、喜びを分かち合おうとする人々の内に輝いています。

 世の闇を照らすまことの光の到来を共に祝うために、今日、ここに集められた皆さん、ナザレのイエスの光を携えて、神の国の祝宴の喜びを携えて、世に出て行ってください。

皆さんの前に現れる世の闇を、その光によって照らしてください。闇の中に置かれている人々と共に、喜びを分かち合ってください。それこそが、神の国の平和を作る道です。

 世の闇が深ければ深いほど、その中に輝く小さな光は、その中に置かれた人たちにとって、大きな希望となり、それがこの世界を、生きるに値する場所とします。

 イエスの光と、神の国の祝宴の喜びを携えて、さあ、行きましょう。

 クリスマスおめでとうございます。