降誕日第1聖餐式 説教

12月24日(火)降誕日第1聖餐式

イザヤ9:1-6; テトス2:11-14; ルカ2:1-20

皆さん、クリスマスおめでとうございます。

 世界が深い闇に覆われている今、私たちが一緒に集まって、祈りと讃美を献げ、クリスマスを祝うことができるということは、決して当たり前のことではないと、強く感じています。

 私は、それを恵みとか、祝福と呼ぶことが相応しいのかどうかもわかりません。

もしかすると、集まって共にクリスマスを祝うことができるということは、今や特権と呼ぶべきことなのかもしれません。

 福音書朗読として読まれたルカ福音書の2章は、羊飼いたちを、世界で最初にクリスマスを祝った者たちとして登場させます。

 この羊飼いたちと、この夜、降誕日の第1聖餐式を行うために集まっている私たちとのコントラストに、私はなんとも言えない皮肉と、怒りと、悲しみを感じずにはいられません。

 昨年のクリスマスとき、クリスマスの街とも呼ばれるベツレヘムで、クリスマスを祝うすべての礼拝がキャンセルとなったことをお話しました。

 それが今年も続くことになりました。ベツレヘムでは、今年もクリスマスが祝われません。

 ナザレのイエスが生まれたときも、神の国の福音を述べ伝えていたときも、羊飼いはもっとも蔑まれる存在でした。

 羊飼いというのは、単なる職業ではなくて、人々から蔑まれ、嫌われ、忌み嫌われる人々の象徴でもあります。

 ルカ福音書の著者は、ローマ帝国で行われる住民登録のために、マリアとマリアがヨセフの生まれ故郷であるベツレヘムに向かったと語ります。

 住民登録は徴税と徴兵のために行われるので、出生地に戻って住民登録をするなんてことは、歴史的にはありえません。

 ですから、これはあくまでもナザレ生まれのイエス様の出生地を、「ベツレヘム」にするための舞台装置です。

 そうだとしても、マリアとヨセフは、住民登録の対象にはなったわけです。

ところが羊飼いたちは、住民登録の対象になりません。彼らは、先祖代々、その地域で生きてきたにも関わらず、社会に属さない秩序を乱すよそ者、排除すべき危険分子とみなされていたのです。

 イエス様が生まれた時代の状況は、今のパレスティナの状況と、容易に重ねることができます。

 ローマ帝国はアメリカ帝国であり、幼子たちを皆殺しにすることを命じるヘロデ大王はネタニヤフであり、羊飼いたちはパレスチナ人です。

 ナザレのイエスが生き、そしてクリスマス物語の舞台となった土地に、20世紀になって突如現れた偽りのイスラエル、シオニスト国家の存在とその蛮行;それを支援する西洋諸国とその同盟国の政治;戦争によって潤う経済。そこには、最も深いこの世の闇が体現しています。

 ガザを見れば、人がどれほど深い闇の中に堕ちることができるのかがわかります。

 人が、殺戮そのものを喜ぶ、あらゆる獣以下の、悪魔的な存在とすらなれることがわかります。

 もし、羊飼いたちこそが、最初のクリスマスの祝いの場に招かれるべき人たちであったとするなら、今日、神様がクリスマスの祝宴に招かれるのは、ガザの住人であり、シオニスト国家にすべてを奪われたパレスティナの人々のはずです。

 羊飼いに象徴される、蔑まれ、忌み嫌われ、神に呪われた者と見なされた人々は、社会から排斥される経験を通して、この世の闇を、この世の暴力を、もっとも直接的に知っている人々です。

 今日のパレスチナ人も同じです。いえ、彼らはイエス様が生まれた時代の羊飼いたちよりも、さらに深い闇の中に置かれ、苦しめられています。

 西洋世界はガザを見捨て、帝国主義とシオニズムの祭壇の上に、パレスチナの人々の命を、文字通り、犠牲として捧げています。

 この闇の中で、私たちはナザレのイエスを、世の闇を照らすまことの光として、再発見しなければなりません。

 そのためには、この世の「力」のある所に光はないことを、私たちが知らなくてはなりません。

 光はローマの皇帝の宮殿にも、ユダヤのヘロデの宮殿にも現れません。それは世の闇の震源地であって、この世の力のあるところに、光はありません。

 この世の力のある所に光がないことを知ることは、軍事力で敵を滅ぼして平和を実現しようとする道を、徹底的に拒否するということでもあります。

 まことの光の力によって平和をつくる道は、遠回りの道です。戦争によって実現された束の間の平和は、戦争によって、あっという間に崩れ去ります。

 では私たちはどこに、ナザレのイエスの光を、神の国の光を見出せばよいのでしょうか?

 それは、「喜び」の中にです。本当の喜びの中にこそ、本当の光が現れます。

 本当の喜びは、光としての喜びは、戦いの中で敵が滅ぼされた時に感じる「カタルシス」とは違います。

 映画や、物語や、ドラマの中で、悪役が滅びる時に感じる、「ざまあみろ」という感情と、本当の喜びは別物です。

 ここに集まっている皆さんは、すでに本当の喜びを味わって、知っていおられるはずです。

 本当の喜びは、日々の生活の中に現れます。自分が誰かに覚えられ、気にかけてもらっていることを知った時の喜び。

 まったく予想していなかった人から、誕生日の祝福の電話がかかってきた時の喜び。

 音楽聴く時に感じる喜び。歌う時に感じる喜び。共に讃美をするときに味わう喜び。

誰かが私のために祈ってくれる喜び。祝福の言葉をかけてくれるときの喜び。

 信頼する仲間と共に食卓を囲み、時間を気にせずに、語り合う時の喜び。これらはみな、本当の喜びです。

そして、私たちが闇と戦うためには、本当の喜びが、絶対に必要です。

 怒りと悲しみの力だけで、闇の力と戦うことはできません。怒りと悲しみの力だけをもってこの世の闇と、不正と戦おうとすれば、私たち自身が深い闇に飲み込まれます。

 その時、私たちは、闇の力をもって闇と戦おうとするようになり、世の闇をさらに深めることになります。

 それは、この世の権力と、この世の帝国と結びついた教会が犯してきた過ちです。

 私たちの出発点はいつでも、どうすれば今、深い闇の中に置かれてしまっている人たちと共に、本当の喜びを味わうことができるかと考えることです。

 この夜、家畜小屋の飼い葉桶の中に現れた光が、羊飼いの心を満たした喜びが、私たちの心を照らし、満たしますように。

 クリスマスおめでとうございます。