9 Lessons & Carols 説教

12月24日(火)9 Lessons and Carols

本日は、クリスマス・イヴの礼拝にようこそお越しくださいました。

私たちは今日、この世の深い闇を照らす光に、イエス・キリスト出会うために、ここに、共に集まっています。

世間では、クリスマスというのは、華やかなパーティーのときだと思われていたり、サンタクロースが自分の欲しいものを持ってきてくれるときだと思われていたりします。

また、クリスマスはロマンチックな時だと誤解しているカップルも沢山います。そのために、このクリスマス・イヴの夜には、クリスマスをロマンチックな時として過ごしたいと思う恋人たちが、教会に沢山やってくる、なんていう珍しい現象も起きたりします。

もちろん、私たちは、クリスマスのときに教会にやってくるカップル「も」大歓迎いたします!「このイヴの礼拝が終わった後、二人でどこに行くんですか?何をするんですか?」なんて聞いたりしませんから、どうぞご安心ください。

ただし、この後の私の話は、大変申し訳ないことですが、「クリスマスにロマンチックな雰囲気を味わいたい!」と思って来られた方たちの期待を、大いに裏切ることになるだろうと思います。

クリスマス物語の主人公は、後に「イエス・イリス」と呼ばれるナザレのイエスという人です。

クリスマス物語は、マタイ福音書とルカ福音書の著者によって、このナザレのイエスという人の誕生に関わる物語として作られました。ところが、彼の出生や、生まれ育った家庭の現実には、ロマンチックなところなどまったくありませんでした。

マリアがイエスを生んだのはティーン・エイジャーのときです。恐らく、中学3年から高校1,2年の年齢です。

彼女はしがない木工職人、ヨセフという男のいいなづけでした。当時、結婚相手は親同士が交渉して決めるので、マリアの結婚相手は、マリア自身が選んだ人ではありません。結婚というのは個人の出来事ではなくて、ある家とある家とが結びつく、共同体的な出来事でした。

ところがマリアは、ヨセフと結婚する前に、「誰の子かわからない子」を身ごもります。子どもの父親が誰なのかは、マリア以外、誰も知りませんでした。

「誰の子かわからない子をみごもった」ことが発覚すれば、婚約関係は、100%、破棄になります。さらに、神の掟と見做されていた旧約聖書の規定は、誰の子かわからない子を宿した女性を、石で打ち殺すようにと命じていました。

ですから、ヨセフとの婚約破棄となれば、マリアと胎内の子どもを待ち受けている運命は、死だったということになります。

クリスマス物語の起源にあるものは、実はナザレのイエスの母のスキャンダルなんです。

結婚前にヨセフとその家族に、マリアの妊娠が発覚していれば、婚約は確実に破棄されたはずです。しかしマリアはそのまま、ヨセフと結婚しました。ということは、マリアは自分の妊娠を秘密にしたまま、ヨセフと結婚したということです。実際、一旦はマリアを妻として迎えたヨセフは、あっという間に、マリアのもとを去っています。

母のマリアは、イエス様の宣教活動を描いた福音書の物語の中に、度々登場します。しかし、ヨセフの方はまったく登場しません。

イエス様の頭がおかしくなったと思って、兄弟がイエス様をとっ捕まえるためにやってきた時も、復活のキリストが現れ、最初の教会が生まれたときも、マリアは登場しますが、ヨセフの姿はどこにもありません。

恐らく、マリアのお腹が大きくなって、もはや妊娠を隠せなくなったとき、ヨセフはマリアのもとを離れたのでしょう。

ところがヨセフが去って間も無く、マリアは別の男性と再婚します。それは、マリアと生まれたばかりのイエスとが生き残るために、絶対に必要なことでした。

当時のユダヤ人社会では、女性が仕事をし、経済的基盤を整えて、自立して生活するなんてことは、まったくありえませんでした。女性の生存が、男性の経済力に完全に依存するように社会が組み立てられていたからです。

マリアと再婚相手の男性との間には、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンという4人の男の子と2人以上の女の子が生まれました。

こうしてイエス様は、継父と4人の腹違いの兄弟と、二人以上の腹違いの姉妹に囲まれて育つことになりました。

父親が絶対的権威を握っている家父長的家族の中で、自分以外の6人の兄弟姉妹は、すべて母の再婚相手の子、自分が誰の子なのか、自分もわからない。それがナザレのイエスの出生と家族の現実です。

イエス様が、継父から充分な食事が与えられていたとも、家に彼の居場所があったとも思えません。

だからこそ彼は生まれ故郷を捨てて、血縁にも、家柄にも、社会的ステータスにも、経済力にもよらない共同体を、ただ、神に与えられた命を喜び、神が与えられた恵みを互いに分かち合うことによって共に生きる新しいコミュニティーを作るために、神の国の運動を始めたのでしょう。

私たちが毎年、クリスマスを祝うのは、ナザレのイエスという人が生まれたからではありません。ナザレのイエスが目指したものを、彼のヴィジョンを、命の与え主であり、世界の創造主である神が、「それは私の目指すものだ!」と言われたから、私たちはクリスマスを祝うんです。

神様がいつそんなことを言われたのか。それは、十字架の上で殺されたナザレのイエスが、復活のキリストとして、弟子たちの前に現されたときです。

神は、幸せどころではない家庭環境の中で生まれ育ち、この世の闇を生き、経験したナザレのイエスを、世の闇を照らす光として現されたのです。

この光が照らす「世の闇」というのは、第一義的には、人の心の闇が生み出す社会的な現実です。

世の闇は夫婦の現実であり、家庭の現実であり、一部の人間の特権と豊かさのために貧困を生み出す政治の現実であり、1%の超富裕層が世界の富の86%を占有する経済の現実です。

しかし、人が作り出すこれらの社会的な闇の根源には、「恐れ」「妬み」「不満」「貪欲」「虚栄心」といった、人の心の闇があります。

神様は、イエス・キリストという光で私たちの心の闇を照らすことによって、私たちを世の闇を照らす光にしようとしています。

人が、ある闇から、別の闇に移るだけでは、世界は闇の中に沈んだままです。

いじめられっ子がいじめっ子になる、虐待を受けていた人が自分の子どもを虐待するようになる、抑圧されていた人が抑圧する側に回る、貧しい人が金の亡者になる。どれも、世の闇の中に光を灯すことにはなりません。むしろ、闇を深くすることになります。

しかし、イエス・キリストの光は、命と恵みの源である神への感謝に動かされる人々を、恵みを分かち合うことによって、共に、豊かに、喜びをもって生きていくようにと招きます。

この光が、私たちの恐れ、妬み、不満、貪欲、虚栄心を照らし出し、そこから私たちを解放し、平和を作る道へと導いてくれます。

今日、ここに、共に集まってクリスマスを祝うことのできる私たちは、光となる「義務」を神様から与えられた者たちです。

皆さん、イエス・キリストの光を受けて、光となってください。

この聖堂から一歩外に出たら、そこには、あなたの照らすことのできる闇があります。

あなたが照らすことのできる孤独が、あなたが照らすことのできる寂しさがあるはずです。
あなたが照らすことのできる貧困が、あなたが照らすことのできる不正が、あるはずです。

世の闇を照らす光の到来を祝うために、共に集まった皆さん、光を受けて、光となってください。

 そして、もし、今日一緒に礼拝に来ている人と別れて、光が消えてしまったと思ったときには、再び心に光を灯すために、ぜひ教会に足を運んでください。

クリスマスおめでとうございます。