
1月15日(水)高校講堂礼拝
ルカ3:15-16,21-22
15歳の私には、たった一つの願いが、たった一つの夢がありました。それは高校に入学して、高校卒業という学歴を手にいれることでした。
中学1年で不登校児になった私は、中学卒業と同時に六本木の旅行会社で働き始めました。そして、夜は定時制の高校に通いました。
ひとり親家庭で、唯一の働き手であるはずの母親が引きこもりになってしまったので、他に選択肢はありませんでした。
最初の2ヶ月はアルバイトとして働き、3ヶ月目から正社員になりました。
ところが、正社員になって最初の給料明細を見た時、自分の人生が、真っ暗な闇の中に落ちたような気持ちになりました。
月曜日から金曜日まで、そして隔週で土曜日も働いて、保険や年金が引かれて手元に残ったのは、自分一人すら食っていけない金額でした。
「一体いくらだったんだろう」と気になる人のために金額を明かしますと、7万円でした。月に24日働いて、手元に残る給料は7万円だったんです。
それが、私につけられた値段でした。
そのまま働き続けても生きていけないことがわかり、一分一秒でも早く、その状況から抜け出したいと思い、川崎市多摩区の福祉事務所に相談をしました。
すると、県の修学助成金を借りれば、全日制の学校に、いわゆる普通の高校に、通える可能性があるということがわかりました。
私は7月一杯で会社を辞めて、定時制の高校には籍だけ置いたまま、近所の県立工業高校の受験に向けて、勉強を始めました。
それは非常に孤独な時間であると同時に、真剣に、自分自身と向き合う時間でもありました。
「落ちたらどうしよう」という不安と闘いながら、「とにかく、自分にできることをやるしかない」と自分に言い聞かせながら、勉強を続けました。
孤独な受験勉強の中で唯一の楽しみは、夜中の散歩でした。生田の丘の上から夜景を眺めながら、「神様、高校に行かせてください。それ以上は何も求めませんから。」そう祈りました。
感謝なことに、願いは叶えられ、希望していた、そして唯一受験をした、工業高校に入学しました。
そのときには、その後さらに17年間もの学生生活を送ることになるなどとは、夢にも思いませんでした。
どういうわけか、私は今、チャプレンとして皆さんの前に立たされて、こんな風に話をしていますが、本当は、私が生きてきた世界と、皆さんが生きている世界とには、何の接点もありませんでした。
同じ日本という国に生まれ育っても、私は皆さんと、まったく別の世界に生きて来たんです。
それにも関わらず、こうして皆さんに出会うことになったのは、この学校がイエス・キリストの名によって建てられた学校だからです。
この学校が建てられた時、女性たちは、メシアを待ち望む人々、解放を求める人々でした。
メシアを待ち望む人たちを解放し、メシアを待ち望む人たちのために働く者を育て、世に送り出すために、この学校は建てられたんです。
この学校が、与えられた富とタレントと教育を、自分のためだけではなく、メシアを待ち望む人々のために用いる人を育て、送り出す学校であり続けることができますように。
