








1月19日(日)顕現後第2主日(C年)
イザヤ書 62:1-5; Iコリント12:1-11; ヨハネ2:1-11
今朝の福音書朗読は「カナの婚礼」と呼ばれる物語で、イエス様が行った「最初の奇跡」として知られているものです。
福音書と呼ばれる書物は新約聖書の中に全部で4つあります。そして、多くの物語は、複数の福音書に出て来ます。
ところが、「カナの婚礼」の物語は、ヨハネ福音書にしかありません。興味深いことに、実は「カナ」という地名も、ヨハネ福音書に4回出てくるだけで、共観福音書と呼ばれる他の3つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)にはまったく出て来ません。
「カナ」という地名との関連でさらに興味深いことは、「カナ」がヨハネの福音書にしか登場しない、あるイエス様の弟子の出身地だということです。それは「ナタナエル」という人です。ナタナエルの名前はヨハネ福音書の中に6回登場します。
1章には、フィリポの仲介によって、ナタナエルがイエス様の弟子となる物語があります。その中でヨハネ福音書の著者は、イエス様にこう言わせています。
「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」(1:47)
他の福音書にはまったく登場しないナタナエルの名前が、ヨハネ福音書に6回も登場するのは、ヨハネ福音書の背後にある共同体の中で、ナタナエルが重要な指導者と見なされていたからでしょう。
ヨハネ福音書にしか登場しない「カナ」という地名が、ヨハネ福音書にしか登場しない「ナタナエル」に結びついている。そうしますと、「カナの婚礼」がイエス様の最初の奇跡の業としてされているのは、ナタナエルに対する敬意と結びついてのことなのでしょう。
ちなみに、ヨハネ福音書は、イエス様の2番目の奇跡も、カナで行われたとしています。それは死にそうになっている王の役人の息子を、イエス様が癒す物語です。
今日の物語が、ヨハネの福音書の著者自身の創作なのか、彼が所属している共同体の中で語り伝えられてきたものなのかはわかりません。
確かなことは、それはイエス・キリストへの信仰を弁明するために、Jesus Movementの中から生まれた物語だということです。つまり、歴史的記述ではないということです。
最初の奇跡の背景として、結婚披露宴という舞台が設置されています。結婚披露宴は、民衆が経験するパーティーの中で、もっとも盛大なものです。
そして結婚披露宴は、結婚した夫婦にとっても、祝宴の参加者にとっても、最高の喜びを味わう時です。この世で経験しうる最大の祝宴にして、最高の喜びを味わえる場。それが結婚披露宴です。
ところが、この世で最高の喜びを味わう祝宴の場に危機が訪れようとしていました。ワインが切れようとしていたのです。ぶどう酒は喜びの象徴です。喜びの象徴であるワインがパーティーの半ばで無くなれば、一気に場が白け、最高の喜びを感じるはずの場は失望の場に転落します。
しかもユダヤ社会は「栄誉を重んじる社会」、メンツを非常に気にする社会でした。イエス様の時代、結婚披露宴は1週間に渡って続きました。花婿の家族にとって至上命題は、祝宴が続くあいだ、食事とワインを切らさないことでした。
喜びの象徴であるぶどう酒がパーティーの最中に「足りなく」なることは、パーティーの主催者にとって最も恐るべき出来事です。それが結婚披露宴の場で起きたとなれば、新夫婦も、双方の家族も笑い者となり、屈辱的な出来事は長きに渡って語り継がれることになります。
祝宴の場を台無しにする危機が迫っていることを察知したイエス様の母は、「ワインがなくなりそうよ!」と息子に訴えました。ちなみにヨハネ福音書に、イエス様の母の名前は一度も出てきません。
ところが、母の訴えを聞いたイエス様は、奇妙な答えをします。ギリシア語から直訳すると、イエス様はこんな風に言っています。
「女よ、(それが)私とあなたにとって、何だというのだ。」
さらに続けて、イエス様はこう言います。「私の時はまだ来ていません。」
「私の時」というのは、イエス様が十字架に掛けられる時のことです。その時はまだ来ていない。
ヨハネ福音書は、イエス様が十字架に掛けられた時こそ、「イエス・キリストの栄光が完全に表されるときだ」と考えています。
「十字架の死は、復活の命となって現れた。だから、十字架に上げられた時は、キリストの栄光が完全に現わされる時だったんだ」、というレトリックです。
このレトリックそのものには大いに問題がありますが、ヨハネの福音書が、「栄光」を「復活の命」に結びつけている点は、とても重要です。
十字架の向こうに現れた、「死を超える命の充満」こそ、イエス・キリストの栄光です。そしてヨハネ福音書は、「死を超える命の充満」として現れる「キリストの栄光」を、母から切り離します。
これは、マタイ福音書とルカ福音書に対する、ヨハネ福音書のアンチテーゼかもしれません。
なぜなら、マタイ福音書とルカ福音書は、イエスの母を処女にすることで、イエス・キリストの栄光を保証しようとしているからです。
ヨハネ福音書では、カナの婚礼の場に居合わせたイエスの母は、彼が十字架に掛けられる場面でもそこに居合わせます。しかし母は、カナの婚礼のときも、十字架にかけられるときも、何の役割も果たしません。
つまりヨハネ福音書は、イエス・キリストの栄光は、母親が誰であろうが、どんな母親であろうが、そんなことは関係がないと言っているのです。
カナの婚礼の奇跡は、十字架の後に現れる、「死を超える命の充満」を指し示す出来事として描かれています。
そこでイエス様は、「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」を、水で一杯にするようにと命じます。彼の言葉に従って、6つの水瓶が水で満たされ、それを宴会会場に運ぶと、それは最高級のぶどう酒に変わっています。
これは、イエス・キリストによって、「清い」ものと「汚れた」ものとを分かつ旧約聖書の掟、「モーセの律法」が無効にされたことを表しています。
それは同時に、イエス様の言葉に従って生きるとき、私たちの命は、律法に従って生きることでは得られない、大きな喜びで満たされることを表しています。
イエス・キリストは、律法に従って生きる「清い者」と、律法に従わない「汚れた者」、ユダヤ人と異邦人、同胞とよそ者の境界線を無効にしたんです。
皮肉なことに、教会は、正統と異端との間に、異教徒とキリスト教徒との間に、高く、分厚い分離壁を建て上げ、異端者と異教徒を武力によって「正しい信仰」に従わせる道を進んできました。
しかし、それは「徴税人、罪人、娼婦、汚れた人々」と共に囲む祝宴の場に、人の命を人の命たらしめる喜びを見出したイエス・キリストを裏切ることではないでしょうか。
そして日本の教会も、教会の「内」と「外」との境界線を乗り越えられなかったがために、これほど貧困になって、痩せ細ったのではないでしょうか?
「カナの婚礼」の場に「最初のしるし」としてもたらされたすばらしいぶどう酒は、もっともっと多くの人たちを招いても「尽きることのない豊かさ」と、この世で味わい得る「最高の喜び」を象徴しています。
願わくはこの年、聖マーガレット教会が、「内」と「外」との境界線を乗り越えて、多くの群衆と共に喜ぶ場となることによって、イエス・キリストの栄光を現すことができますように。
