顕現後第3主日 説教

1月26日(日)顕現後第3主日

ネヘミヤ8:1-3,5-6,8-10; Iコリント12:12-31a; ルカ4:14-21

 「預言」に「預言者」。当たり前に教会で用いられる、聞き慣れた言葉ですが、その取り扱いには、よくよく注意する必要があります。

 旧約聖書に登場する預言者と呼ばれる人々は、自分が活動している時代の人々に向けて語っているのであって、未来の誰かに向かって語っているわけではありません。

 彼らは、何百年後かに起こる出来事を予告しようともしません。せいぜい、近い将来に「起きて欲しいこと」を語ることがあるくらいです。

 そして、言語学的な最低限の前提として私たちが押さえておくべきことは、言語には未来の世界をあらかじめ示す機能は備わっていないということです。

 古事記にインターネットや携帯電話が出てこないのはそのためです。

 誰かが、「日本書紀のここここには、東京タワーのことが書かれているんだよ!日本語ってすごいでしょう!」と言い出すことはあるかもしれません。

 しかし、日本書紀に東京タワーのことが書かれているという人が現れたからと言って、日本書紀に東京タワーのことがあらかじめ書かれていたということにはなりません。

 では、旧約聖書の大部分が書かれたヘブライ語だけは特別で、未来について語ることのできる特別な力があったのかというと、もちろん、そんなことはありません。

 ですから、イエス様が現れる数百年前に書かれたテキストが、ナザレのイエスという人物について、何かを語っているということもありません。

 では、福音書の中に散発的に現れる「ナザレのイエスに関する預言」とは何なのか。それは「解釈」です。

 「キリスト教」と呼ばれるものの起源にあるのは、「十字架」でも「罪からの救い」でもありません。

 キリスト教の起源には、「十字架の上で殺され、墓に葬られたナザレのイエスが、死から起こされ/甦らせられ、女性たちの前に現れた」という出来事があります。

 これは、物理学の世界でビッグバンとブラックホールが宇宙の特異点であるように、世界史の中の特異点であり、理解し難い出来事です。

 しかし、この出来事こそが、Jesus Movementの起点、ビッグバンなのですから、それについて何かを理解して、語らないわけにはいきません。

 Jesus Movementの最初の担い手はユダヤ人ですから、彼らは「ユダヤ教」、「神殿祭儀」、「旧約聖書」、「伝承」といった、自分たちが受け継いできた古い枠組みの中で、理解し難い出来事を理解し、それについて語ろうとしました。

 「預言」や「預言者」は、ユダヤ人がナザレのイエスの語ったこと、したことと、彼に起きたことを見るための、重要な「メガネ」の一つでした。

 私たちは常に、特定のメガネを通して、世界を見ています。 しかし私たちは、自分がどんなメガネを通して世界を見ているのか、普通に生活していると気付きません。

 ユダヤ人のある人たちにとって、「預言」や「預言者」という枠組みは、世界で起こっている出来事を見て、理解し、人々に語るための、大切なメガネだったんです。

 今日の福音書朗読の箇所には、「預言」というメガネを通して、ナザレのイエスが語った神の国の福音が、どのように解釈されたのかが示されています。

 ここで神の国は、「貧しい人」に向けられた「解放の宣言」と見做されています。

 「貧しい人」は「捕らわれている人」、「目の見えない人」、「打ちひしがれている人」であり、イエス様の時代には、人口の9割を占めていました。

 ローマ帝国の属州であった当時のユダヤの世界では、「日々の糧」の心配をしなくて済んだのは10%のエリートだけでした。

 残りの90%は、「日毎の糧」を得ることすらままならない「貧しい人」たちでした。

 イエス様は、群衆を貧しさと病の中に捨て置くユダヤ人社会のエリートたちと対立し、彼らを批判しました。

 イエス様は、エリートのステータスと特権を危険に晒す危険人物と見做されたがために、ユダヤ人社会のエリートの主導によって抹殺されることになったのです。

 イザヤ書の預言という物語を通して、貧しい人の解放として神の国を理解することは、歴史的イエスの姿に呼応する、極めて正しい解釈です。 そして私たちも、神の国の福音は、誰よりもまず、貧しい人に向けられた解放の宣言だったということを、心に留めていなくてはなりません。

 エリートの振る舞いは、ナザレのイエスの時代も、現代も、ほとんど変わりません。

 いえ、むしろ、今の世界のエリートは、イエス様の時代のエリートたちよりも、はるかに危険な存在となっています。

 私たちの生きるこの世界で、金と権力とをコントロールしているのは、世界人口の1%にも満たない人々です。

 そして、集団としてのエリートは、自分たちの特権が制限されることを、富の蓄積を制限されることを、絶対に受け入れません。

 それを徹底的に避けるために、私たちはセレブと呼ばれる人々、成功者と呼ばれる人々を「モデル」として、「理想」として生きるように、洗脳されているのです。

 その現実は、新たに発足したトランプ政権の記念撮影会で最前列に顔を並べた、Elon Musk, Jeff Bezos, Mark Zuckerberg, Google CEO のSundar Pichai の姿にも象徴されています。

 そして無制限の特権と、無制限の富の蓄積を保証するためにエリートが用いる最も巧妙な手段は、「貧しい人」同士を敵対させることです。

 「貧しい人」の敵を、「貧しい人」にすることによって、エリートは自分たちの悪から、人々の目を逸らします。

 90%の人間を生活困窮者にしながら自分の特権と富を守るエリートは、失業、貧困、ホームレス問題を、移民や難民のせいにしようとします。

 そして私たちは、「貧しい人」を「貧しい人」にしているエリートの術中にはまって、エリートの特権と豊かさを維持し、「貧しい人」をさらに貧しくするような選択をするのです。

 先週、1月20日の月曜日に、再選を果たしたドナルド・トランプの大統領就任式が行われました。

 その翌日、21日の火曜日には、ワシントンの National Cathedral に新大統領を迎えて「国民祈祷会」 (National Prayer Service) が行われ、ワシントン教区主教の Mariann Edgar Budde が説教者として立ちました。彼女はトランプ大統領を前に、こう語りました。

 「大統領、私たちのコミュニティーの中に、親と離れ離れになるかもしれないと恐れ慄く子どもたちがいます。彼らを憐れんでください。共感と歓待を求め、戦闘地域や自国での迫害を逃れてきた人々を助けてください。神は、外国人に対して憐れみ深くあるようにと教えています。かつて私たちも、この土地で外国人だったのですから。」

 トランプは大統領就任前から、自分の性的アイデンティティーについて思い悩む人々を非合法な存在とし、子どもたちがアメリカ生まれで在留資格があっても、「不法入国者」の親は強制送還にすると宣言していました。

 そのトランプを、ワシントン教区主教は、ナザレのイエスに倣って批判したのです。

 ワシントン教区主教の説教に気分を悪くした新大統領は、X(旧Twitter)上でこう呟きました。

火曜日の「国民祈祷会」で話をしたいわゆる主教は、過激な左翼で、強硬なトランプ嫌いだ。彼女は無礼にも、自分が(働く)教会を「政治の世界」に引き込んだ。声の調子は卑劣で、説得力も無ければ、賢そうでもなかった。彼女は我々の国にやって来て人々を殺した、多くの不法入国者については、何も言わなかった。多くは刑務所や精神病院から移送された連中だ。アメリカに巨大な犯罪者の波が押し寄せているのだ。彼女の不適切な発言を別として、礼拝は非常に退屈で刺激的でもなかった。彼女はまともに自分の仕事をできていない。彼女と教会は国民に謝罪すべきだろう。

 大統領に遠慮し過ぎたせいかもしれませんが、Budde主教は、トランプと自分の先祖たち、ヨーロッパからの入植者たちこそ犯罪者であり、1千万から1千2百万人の先住民を殺害し、殺戮と収奪の果てにアメリカ合衆国を生み出したということには触れませんでした。

 しかし、彼女の勇気と、ナザレのイエスに倣う真実な言葉は、賞賛に値します。

私たち聖マーガレット教会も、貧しい人の解放として神の国の福音を語り、ナザレのイエスに倣って、エリートたちの悪に対して立ち上がる共同体として生きることができますように。