












2025年02月02日(日)被献日
マラキ3:1-4; ヘブライ2:14-18; ルカ2:22-40
皆さんがもし、日本の学校に行かれていたとしますと、小学校か中学校かの社会科の授業で、「日本国憲法」について学ぶ機会があったと思います。
「日本国憲法」第1章の第1条に何が書かれているか、皆さん、覚えていらっしゃるでしょうか。そこにはこう書かれています。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」
私はこれまで、「あなたは、天皇が日本国の象徴で、日本国民統合の象徴であることを認めますか」と聞かれたことは、一度たりともありません。ですから、「日本国憲法」第1章の第1条が、「事実」でも、「現実の記述」でもないことは明らかです。
では「日本国憲法」とは何なのかと言えば、それは1つのフィクションです。
今朝の福音書朗読も、1つのフィクションです。ルカ福音書の著者は、イエス・キリストはすべての民の救い主であるにも関わらず(29-31)、多くの人に退けられ(34, 35)、十字架の上で苦しむことになったということを示すフィクションを生み出しました。
私が今日、「被献日」のフィクションに触れながら、皆さんと共に確認したいことは、「人はフィクションを生み出し、フィクションの中で生きる存在なんだ」ということです。
今日の説教の中で、私が「フィクション」という言葉を用いるとき、そこには否定的なニュアンスはまったくありません。
私は大学時代と大学院時代と、あちこちの領域に足を突っ込んでいたので、「これが専門です」と言えるようなものは何もないんですが、足を入れた領域の一つに、「哲学的解釈学」というのがあります。
恩師のホアン・マシア神父さんの手解きを受けながら、フランス人哲学者ポール・リクールという人の著作を読み漁りました。
リクールは、人が言語を媒介としてフィクションを生み出し、世界を創造的に再現する営みを「ミメーシス」(μίμησις)と呼びました。
リクールがフィクションについて語ったことを、私なりに神学的に表現すると、「人は、神が創造された世界の中で、フィクションを生み出すことを通して、神を模倣する」と言えるのではないかと思います。
私たちは皆、神様が創造された世界の中に存在しています。神が造られた世界に存在しているという点では、人も、犬も猫も、馬もキリンも、チンパンジーもマントヒヒも、鯨も魚も、花も木も、みんな同じです。
しかし人は、神が作られた世界の中に、ただ置かれているというだけではありません。その中に、ただ閉じ込められているのではありません。
人は、フィクションを生み出すことを通して、神が造られた世界の中に、新しい世界を生み出し、その中で生きているんです。
冒頭でお話ししたように、「日本国憲法」というのは一つのフィクションです。そして私たちは、そのフィクションの中で生きています。
「民族」はフィクションですし、「国家」も「国民」もフィクションです。そして私たちは、「民族」、「国家」、「国民」といったフィクションの中で、実際に生きています。
中学や高校の社会の授業で「人権思想」について触れたことがある人なら、ジョン・ロックという人の名前を聞いたことがあると思います。けれども、ロックの著作を実際に読んだことがある人はほとんどいないでしょう。
しかし、私たちが生きている近代国家とか、国際秩序といったものを理解したいと思うなら、彼がどんなフィクションを作り、語ったのかということを知っていて損はありません。
ロックは『政治についての二つの論文」と題された著作の中で、「土地に、その価値の大部分を付与するのは、労働であり、労働を加えられない土地はほとんど何の価値もない」、「自然と地面は、ほとんど無価値な素材を与えるに過ぎない」と語ります。
ロックによれば、アメリカ大陸は自然状態にあり、無価値であり、誰のものでもありませんでした。なぜなら、アメリカ大陸の広大な土地は、土着のアメリカ人が労働によって価値を与えることも、囲い込むこともしておらず、所有権を認める政府もなかったからです。
アメリカ大陸は誰の物でもないので、そこに渡っていったヨーロッパ人たちが、土地に労働を加え、自分たちの所有物としてもかまわない。彼はそう言いました。
これはロックが生み出したフィクションですが、このフィクションが、アメリカ合衆国というフィクションを生み出すこととになるんです。
これはアメリカだけに当てはまる話ではありません。人は皆、フィクションのネットワークとしての「世界」に生きているんです。
意外なことと思われるかもしれませんが、科学も数学もフィクションです。
自然科学の理論やモデルは、世界そのものでも、宇宙そのものでもありません。それは創造的想像力によって生み出されたフィクションです。
数学も、世界の中に自然に存在するわけではなくて、人間の言語行為によって生み出された、もう1つのフィクションです。
こうして人は、神が創造された世界の中に存在しながら、フィクションを生み出すことを通して、自分たちが住みつく世界を生み出します。
貨幣制度も、世界経済も、国際法も、すべてフィクションです。
人がフィクションを通して生み出した世界は、神が創造された世界に影響を与え、その進路を変えます。
人が、フィクションを通して、自分たちが住みつくべき新しい世界を生み出す存在だからこそ、そこに人間独自の、重大な問題が生まれます。
問題は、フィクションではありません。問題は、私たちが生み出すフィクションが、真理を映すものか、偽りに満ちたものか、正義を実現するものか、悪を増長するものかということにあります。
トランプ大統領を支持するアメリカのクリスチャンたちは、アメリカを再び偉大な国にするために、神がトランプを選んだのだと語ります。それも1つのフィクションです。
果たしてそれは、真実で、正義を実現するフィクションでしょうか。それとも悪意と偽りに満ち、差別と偏見を助長するフィクションでしょうか。
旧約聖書も、新約聖書も、その大部分はフィクションです。その事実は、積極的に評価するべきことであって、引け目に感じるべきことでも、悲しむべきことでもありません。
毎週日曜日に、イエスの名によって集まって礼拝を献げ、そこで説教が語られる。それは、私たちがナザレのイエスに倣う者として生きることを可能にするような、新しいフィクションを生み出す営みです。
新たなフィクションを生み出すことなしに、私たちは今、この時代に、神の国の民として、希望と喜びを持って生きることはできません。
皆さん、聖マーガレット教会が、ナザレのイエスの姿を現し、神の国の民として生きることを可能にするフィクションを生み出し続けることができるように、聖霊の息吹を求めて祈ってください。
