








顕現後第5主日 2025年2月9日
イザヤ6:1-8; Iコリント15:1-11; ルカ5:1-11
今年の1月から、毎月第2日曜日の礼拝に、逝去者のご家族をお招きして共に礼拝を献げ、代祷の中でその月の逝去者のお名前を上げて祈るようにいたしました。
普段あまり気にかけることはないと思いますが、聖マーガレット教会の「逝去者」のカテゴリーに入っている方は、亡くなられた教会のメンバーだけではありません。
聖マーガレット教会の「逝去者」の中には、教会のメンバーではないけれども教会で葬儀をした人、小平の教会墓地に埋葬されている人、さらには聖マーガレット教会とまったく接点の無い、教会員の家族といった人まで含まれています。
しかし、聖マーガレット教会の「逝去者」の実態は、教会の「伝統」から、大きく逸脱しています。
教会は、異教徒や、教会から破門された者の葬儀をすることを、厳しく禁じてきました。
聖公会の例で言えば、かつては祈祷書の中に、教会員以外の葬儀をしてはならないと明記されていました。ですから、聖マーガレット教会の「逝去者」の実態が、教会の「伝統」から大きく逸脱していることは、否定しようのない事実です。
では、私たちは、教会のメンバーでは無かった人たちの葬儀をしたり、クリスチャンではなかった人を教会の墓地に埋葬することで、大きな罪を犯しているということになるのでしょうか。
まったくそんなことはないと、私は信じています。
今日の福音書朗読は、漁師だったシモン・ペトロとゼベタイの子のヤコブとヨハネを、イエス様が弟子として招く物語です。
シモン・ペトロに向かって語られた「人間をとる漁師」という言葉があまりにも有名で、物語の全貌は知らなくても、この言葉だけは知っているという方もいらっしゃるかもしれません。
実は原文のギリシア語には、「漁師」(ἁλιεῖς)という言葉は出てきません。ギリシア語からの直訳は、「今からお前は人を捕まえる者になる」です。
実は、ヨハネの福音書の21章1節から14節には、今朝の福音書朗読と非常によく似た物語があります。
ルカ福音書の5章1節から11節の物語と、ヨハネ福音書の21章1節から14節の物語には、細部の違いはあるものの、ストーリーも登場人物も、ほぼ同じです。
どちらの物語にも、シモン・ペトロとゼベダイの二人の子たちが登場します。どちらの物語の中でも、ペトロが重要な位置を与えられています。
シモン・ペトロと仲間たちが夜通し網を打っても何も獲れず、徒労に終わった点も同じです。
そこにイエス様が現れ、絶対に魚が獲れないような時間帯なのに、網を降ろすようにと弟子たちに命じる点も同じです。
弟子たちがイエス様の言葉に従って網を降ろすと、魚が取れるはずのない時間なのに、大量の魚が獲れたことも共通しています。
そして何よりも、2つの物語が果たしている機能が同じです。それは、物語の中で描かれている出来事の結果として、「イエス様が誰なのかわかるようになる」ということです。
キリスト教用語で言えば、どちらも「顕現物語」(Epiphany)なんです。
ルカ福音書の著者とヨハネ福音書の著者は、もともとは一つの「顕現物語」として流通していたものを、それぞれの意図に従って、異なる文脈の中に置きました。
私たちは、彼らが残した福音書の物語や、パウロの手紙などを通して、いわゆる「イエス・キリストの福音」に接近します。
しかし、福音書も手紙も、聖書も伝統も、「イエス・キリストの福音」そのものではありません。
「イエス・キリストの福音」そのものは常に、新たに明らかにされるべき、そして新たに語り直されるべきものとして留まり続けます。
この「イエス・キリストの福音」という神秘を明らかにするための鍵を握っているのは、新約聖書の中に散りばめられた様々な「顕現物語」の背後に隠された、ある出来事です。
それは、「十字架の上で殺され、墓に葬られたナザレのイエスが、死から起こされ、女性たちに現れた」という出来事です。
これこそが、あらゆる現顕物語の根源にある出来事です。この出来事について、パウロとルカ福音書の著者に抗って、私たちが常に覚えておくべきことがあります。
それは、最初の「復活の証人」は、間違いなく女性たちだったということです。最初の復活の証人として、普遍的に名前を知られていたのは、マグダラのマリアです。
復活の証人の女性たちは、ただ「空の墓」を発見しただけではありません。彼女たちこそ、新しい命に移されたイエス様の姿を、最初に見た人たちです。
12使徒たちを初めとする男の弟子たちは、女性の復活の証人のおかげで、彼女たちの証言によって、復活のキリストの姿を見ることになりました。
パウロは、今日の第2朗読の中で、神によって死から起こされたキリストが、ケファ(シモン・ペトロ)と12使徒に現れ、500人以上の兄弟たちに現れ、ヤコブに現れ、すべての使徒たちに現れたと言います。
ここでパウロが挙げている復活の証人は、みんな男です。ただし、この「復活の証人リスト」は、パウロ自身が作ったものではありません。
それは教会の間で流通していた「伝統」で、この証人リストを、パウロも「伝統」として受け取ったはずです。
復活のキリストが女性たちに最初に現れて、わずか25年の間に、イエス様の宣教活動を支えた女性たちは、男たちの背後に追いやられていることがわかります。
それは、「伝統」の中にも、聖書の中に収められた書物の中にも、イエス・キリストの福音を歪ませる力が働いているということです。
十字架の上で殺され、墓に葬られたナザレのイエスを、神が死から起こされ、まず、神の国の土台を据えた女性たちに「復活のキリスト」として現された。
そのことは、テキストの「行間」を読めば明らかになります。
この復活のキリストを、神ご自身が、裏切り者のペテロと、12使徒たちと、教会を迫害したパウロにさえ現された。
そうだとするなら、それは、復活の命の希望は、ナザレのイエスを裏切る者にも、ナザレのイエスを十字架につけた者にさえ、与えられているということです。
神が女性たちの前に現された復活のキリストは、神が全人類に与えられた希望です。
死すべき体にあって生きる命の向こうにある、復活の命の希望。それは教会が独占所有できるようなものではないのです。
聖マーガレット教会が、クリスチャンでない方の葬儀を行い、教会のメンバーでない人たちを小平の墓地に受け入れるのは、復活の命の希望が、すべての人に与えられていることの証です。
十字架の上で殺され、墓に葬られ、死から起こされ、女性たちに現されたたナザレのイエスが、福音の神秘をますます明らかにしてくださいますように。
