顕現後第6主日 説教

2月16日(日)顕現後第6主日

エレミヤ17:5-10; Iコリント15:12-20; ルカ6:17-26

 今日の福音書朗読箇所は、マタイ福音書の5章から7章の「山上の説教」との対比で、「低地の説教」と呼ばれることがあります。

 福音書の中に出てくる多くのエピソードは、一字一句同じということはありませんが、複数の福音書にまたがって登場します。

 ルカによる福音書の6章20節から26節のエピソードは、マタイ福音書の5章1節から12節にも出てきます。

 しかし、ルカ版とマタイ版の物語には、共通する部分と、大きく違う部分があります。

 例えば、ルカ版の「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」という部分は、マタイ版では「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」となっています。

 マタイ版では「神の国」が「天の国」になり、「貧しい人々」が「心の貧しい人々」になっています。

 「神の国」と「天の国」は、相互に読み替えが可能な2つの表現と見なすことができるとは思いますが、「貧しい人々」と「心の貧しい人たち」とでは、その意味は大きく変わってきます。

 ルカの福音書が「経済的現実」として語っている「貧しさ」が、マタイ福音書では「心の問題」になっているわけです。

 しかしマタイ版とルカ版のもっとも大きな違いは、ルカ福音書6章の24節から26節にある「災いの宣言」の部分です。そこにはこうあります。

 「24 しかし、富んでいる人々、あなたがたに災いあれ。あなたがたはもう慰めを受けている。25 今食べ飽きている人々、あなたがたに災いあれ。あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々、あなたがたに災いあれ。あなたがたは悲しみ泣くようになる。26 皆の人に褒められるとき、あなたがたに災いあれ。彼らの先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

 非常に激しい言葉ですが、まず、ショックを受けておられる「お金持ちのクリスチャン」に向けて、慰めと励ましの言葉を述べたいと思います。

 イエス様の周りには、間違いなく、お金持ちが少なからずいました。

イエス様と弟子たちの宣教活動を経済的に支えたのは、間違いなくお金持ちのパトロンです。彼らはイエス様と十二弟子たちに宣教活動の拠点として家を解放し、食事と寝る場所を提供し、旅の途上で食糧を買うためのお金も出してくれました。

 そして、イエス様がそこに神の国を見出した、罪人と遊女と徴税人とが集まるパーティーを開いてくれたのも、お金持ちの「イエス推し」たちだったはずです。

 ですから、イエス様が、裕福で、財産を持っている人たちを、全面的に拒否したなんてことはありません。お金持ちの皆さま、どうぞご安心ください。

 すると、「富んでいる人々、あなたがたに災いあれ」、「今食べ飽きている人々、あなたがたに災いあれ」、「今笑っている人々、あなたがたに災いあれ」という言葉は、ルカ福音書の著者がイエス様に言わせているだけで、イエス様自身は、金持ちを呪うようなことは一切言わなかった、という話になるのでしょうか?

それも違います。イエス様がお金持ちを呪う言葉を吐いたことは、きっと何度もあったはずです。というのも、福音書の中でイエス様が対立している相手も、イエス様が怒りを燃やす相手も、みんな裕福な人たちだからです。

 イエス様の言葉としてもっとも有名なものの一つに、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」(マルコ10:25)というのがあります。金持ちは神に入れないとも取れる、厳しい言葉です。

 さて、イエス様の周りには、お金持ちのパトロンが少なからずいて、その人たちがイエス様と弟子たちの宣教活動を支えたという現実と、イエス様がお金持ちに対して怒りを燃やし、呪いの言葉さえ吐いたということを、私たちはどう理解すればいいのでしょうか?

 その答えはそれほど難しくありません。まず、イエス様は、富が蓄積するところに不正を、悪を見ています。

 イエス様にとっては、一方にその日の糧を得られずに死んでいく人がいて、他方に何百回人生をやり直しても使いきれないほどの財産を持っている人がいるという現実には、いかなる正当化もあり得ません。

 ですから、イエス様的に言えば、富を築いた者に、誇るべきことなど何も無いということになります。

 この点において、イエス様のポジションは、旧約聖書の大部分に表れている、この世の富を神の祝福と見なす世界観から大きく逸脱しています。

 しかし、先祖代々の不正によって積み上げてきた富を、神の国のために放出できる人たちがいました。それが、イエス様の宣教活動を支えた人たちであり、「針の穴を通ったラクダたち」です。

 イエス様が対立し、怒りを燃やした金持ちたちは、不正に蓄えた富を抱え込み、自分と身内のためにしか使おうとしない、哀れみの心を持たない人間たちです。

 イエス様にとって、不正な富を自分と身内のためにしか使えない人間は、人の命を奪いながら肥え太り、自分たちの悪を正当化する者たちであり、神の国に入ろうともしない、自分で自分を呪う者たちです。

 今で言えば、Elon Muskや、トランプや、シオニストのような者たちです。

 自分と身内のために財産を溜め込んで、他者のために使うことのできない呪われた金持ちは、自分を褒めて、人をけなすナルシストです。

 「真面目に勉強して、いい大学に入って、一生懸命働いたから、自分は豊かなんだ。貧乏なやつらは怠け者で、真面目に勉強しないで、遊んでいたから稼げないんだ」。

 裕福な人たちの多くがそう言いながら、ひとり親家庭の貧困を正当化してみたり、生活保護受給者をディスったりします。

 しかし、良く知られているように、親の収入と子どもの学力との間には、明確な相関関係があります。経済格差は教育格差となり、教育格差が貧困の連鎖を生み出し続けています。

 それは、私と私の母とが直面してきたリアルでもあります。

 1945年の敗戦の年に10歳の少女だった私の母は、勉強好きで、中学校では成績優秀で、先生から高校に行くことを強く勧められました。

 しかし家庭は貧しく、両親は女の子に教育を受けさせる意味をまったく見出すことのできない人たちでした。

 受験料すら払えず、文字通り、泣く泣く高校進学を断念せざるをえなかった母は、7人家族の家計を支えるために、働きに出ざるをえませんでした。

 35で結婚して子どもを産み、シングル・マザーとなった母が、どんなに死に物狂いで働いても、母一人子一人の家庭が貧困状態から脱することはありませんでした。

 生きていくこともままならない経済状態の母には、子どもの教育について考える余裕などありませんでした。

ですから私の母は、運動会にも、授業参観にも、教員との面談にも、一度たりとも顔を出したことがありません。そんな余裕は無かったんです。私は、習い事をしたこともないし、塾に行ったことも、予備校に行ったこともありません。

 それが私と母との現実でした。私の中には常に、利権政治で教育に金を使わず、貧困の連鎖を放置しているこの国に対する、激しい怒りがあります。

 周回遅れで、しかも独学で勉強を始めて、どうにか人並みの学力を身につけようと私が必死になったのは、貧困家庭の子どもたちの学力不振は能力の問題ではなくて、貧困を放置する社会の問題なんだということを証明したいと思ったからです。

この国では未だに、どんなに能力があっても、貧しい家庭に生まれた者が学問をすることは、非常に困難です。学費も物価も高騰し続け、貧困家庭の子どもが学問を追求すれば、借金地獄に陥ることになるからです。

 結果的に、貧困家庭の子どもたちの多くは教育を諦め、非常に不安定で、経済的に不利な仕事に就かざるをえず、貧困の連鎖の中に留め置かれるのです。

 皆さん、神の国のために、不正な富を使ってください。

 高い教育を受けられた皆さん、教育格差による貧困の連鎖を断ち切るためにどんなことができるのか、食事の時でも、お茶を飲みながらでも、教会の中で話し合い、そしてアイディアを出してください。それは人を解放する、神の国の働きとなります。

 主が皆さんにひらめきを与え、良いアイディアを実行するために必要な人を備えてくださいますように。