大斎節第2主日 説教

3月16日(日)大斎節第2主日

創世記15:1-12,17-18; フィリピ3:17-4:1; ルカ13:31-35

 「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」ファリサイ派のある人々が、そうイエス様に警告を発しています。

 これが、イエス様の身の安全を心配しての発言なのか、それとも厄介払いの口実なのか、この箇所の文脈だけからは判断できません。

 ルカ福音書の中には 「ファリサイ派 (Φαρισαῖοι) という言葉が27回出てきます。その中に、イエス様とファリサイ派との関係を友好的描いている箇所は一つもありません。

 しかも13章の32節以下は、ルカ福音書の著者による、ファリサイ派に対する断罪の言葉です。

 そうしますと、13章の31節にだけ、例外的に、イエス様に優しいファリサイ派が登場していると捉えるのには、かなり無理があるかと思います。

 そうしますと、イエス様はここで、「ここに居座ってると、命の保証はないぞ」という遠回しの脅迫を受けているという風に読むのが、妥当な線ではないかと、私は思います。

 それに、イエス様に対するファリサイ派の態度が敵対的ではないと想定したとしても、変わらない一つの事実があります。

 それは、ユダヤ社会のエリートが、「イエス様を亡き者にしたい」と思っていたということです。

 ここに出てくるヘロデは、クリスマスの降誕劇に出てくるヘロデ大王ではありません。その息子のヘロデ・アンティパスです。

 ヘロデ・アンティパスは、バプテスマのヨハネを投獄し、首をはねて殺したガリラヤの領主です。

 「ヘロデがあなたを殺そうとしています」という言葉は、「バプテスマのヨハネと同じ運命が、お前を待っている」というのと同じです。

 ナザレのイエスを亡き者にしたいと思っていたのは、ヘロデ・アンティパスだけではありませんでした。

 エルサレム神殿の祭司たち、神殿貴族のサドカイ派、長老たちといった神殿当局者、律法学者、そしてファリサイ派のある者たちも、イエス様を抹殺したいと思っていました。

 バプテスマのヨハネの死は、自然現象ではありません。イエス様の十字架の死も、自然現象ではありません。戦争も自然現象ではありません。

 これらはすべて、政治的決定です。自分の富と特権と影響力の維持を目指すこの世の支配者が、民衆の感情に従って政治決定を下すことなどありません。

 もしヘロデ・アンティパスが、ユダヤの民衆感情に配慮していたなら、バプテスマのヨハネが殺されることはありませんでした。

 この世の支配者、政治的決定を下すエリートたちの関心は、自分たちの思惑に沿うように、民衆感情をいかに操作するかということだけです。

 民衆の側は、この世の支配者によって操作されていることに無自覚で、無防備です。こうして支配者の思惑に従って操作された民衆が、「イエスを十字架につけろ!」と叫ぶことになります。

 2022年に時の安倍元首相が殺害されたことで、初めて、日本の政治と統一教会の関係が、マスコミでも報道されました。

 1980年代には、統一教会の霊感商法が大きな社会問題となったにも関わらず、自民党と統一教会の関係が表沙汰になることはありませんでした。

 自民党と統一教会とを結びつけたのは、日本を共産主義の防波堤とするというアメリカの思惑と、アメリカへの従属と引き換えに政治の表舞台に戻ることを受け入れた者たちの利害であって、そこに国民はいません。

 国民を守るための政治決定が下されたならば、統一教会はとっくの昔に無くなっていました。

 この国の政治のど真ん中にカルト集団がいることを知らされてもなお、私たちはこの世の支配の根底に、巨大な偽りがあるという事実から、目を逸らし続けるのでしょうか?

 もう一度繰り返します。政治的決定は自然現象ではありません。大きな政治的決断の背後には、大きな思惑が、大きな嘘があるものです。

 それが、ナザレのイエスを十字架の上で殺すことになる、「世の罪」です。

 私たちは来週、「アルペなんみんセンター」の松浦由佳子さんをお呼びして、「難民のことを知ろう」というテーマでお話を聞きます。

 その私たちは日頃、無関心の故に、世界で最も難民を追い返す為政者を野放しにし、難民鎖国の維持に貢献し、故郷を逃れて来た者たちの苦しみを増し加えています。

 2年前には、難民審査員を務める「難民を助ける会(AAR)」名誉会長が、たった1人で全難民申請の約25%を扱い、4000件中6件しか難民認定されていなかったことが大問題になりました。

 難民審査参与員は111人いるのに、難民鎖国の維持強化に最も貢献している者が難民申請の25%を扱い、難民申請者をことごとく追い返していたんです。

 この異常な現実が、為政者たちの思惑によるもので無いとしたら、一体何だというのでしょうか。

 ナザレのイエスに倣って生きるということは、彼を通して世界を見ることを学ぶということです。それは、彼を十字架につけた罪を知ることでもあります。

 この大斎節が、ナザレのイエスを十字架につけた罪に向き合いながら、嘘と暴力に満ち溢れたこの世界で、喜びと、希望をもって生きる信仰者へと成長する時であることを、心から祈り、願います。

そして聖マーガレット教会が、この世の支配者によって隠され、亡き者にされようとする人々を露わにし、生かす共同体へと変えられてゆきますように。