









2025年3月23日(日)大斎節第3主日
イザヤ55:1-9; Iコリント10:1-13; ルカ13:1-9
「神の裁きを受けて滅ぼされたあいつらは、汚れた罪人だ」。
「悔い改めないと、お前たちは酷い目に遭うぞ」。旧約聖書も、新約聖書も、そんな言葉に溢れています。今日の第2朗読にも、福音書朗読にも、そういうことが言われていました。
聖書の中に(も)、そういう言葉が溢れているのは、「苦しみに遭って滅びる奴らは、悪人なんだ」というものの見方が、人の中にあるからです。
当然のことながら、「あいつらは悪人だから神様に裁かれて、滅ぼされたんだ」と思っている人は、「自分は悪人じゃない」と思っています。
そして「悪人は神に裁かれ、滅ぼされて当然だ」から、「オレたちは悪人を滅ぼしているんだ」までの間には、半歩の距離しかありません。
「難民は社会の秩序を乱す奴らだ」は、簡単に「難民を追い返せ」になります。
難民を悪人扱いするドナルド・トランプの支持者にとっては、自分の先祖たちが、呼ばれもしないのにアメリカ大陸にやって来て、何百万もの先住民を殺害し、民族浄化の果てに「アメリカ合衆国」なるものを建てたことは、神の摂理だということになります。
イエス・キリストが帰ってくるために、神の計画が実現するために、パレスチナの連中は酷い目に遭ってもいいんだと考えた人たちが、シオニスト国家イスラエルを生み出しました。
そして、彼らが生み出したモンスターは、「あいつらは悪人なのだから、滅ぼされて当然だ」と言いながら、ガザでの虐殺を続けています。
ルカ福音書の著者も、パウロも、「神の裁きはすぐそこだ!お前たちは悔い改めないと滅びるんだぞ!」と言います。
しかし、「酷い目に遭わないためににこうしろ、ああしろ」という語り方は、全然イエス様的じゃありません。
イエス様が怒りを燃やしたのは、「人を酷い目に遭わせている奴ら」であって、酷い目に遭っている人々ではありませんでした。
イエス様が怒りを燃やした相手は、社会の指導者と言われる人間たちです。エリートたちです。
「お前がそんなに苦しんでいるのは、お前が悪人で、神の裁きを受けているからだ」、そんな風にイエス様が言っている場面は、一つとしてありません。
もちろんイエス様は、この世の中心に悪があることを知っています。誰一人、悪の力から自由でないことを、イエス様は知っています。
しかし、イエス様にとって一番危険な悪人は、自分は安全な所にいて、豊かさと特権とを享受しながら、「あいつらは苦しんで当然だ」と思っている者たちでした。
イエス様は、神の国の教えを聞いた者たちの生き方が変わることを期待していました。しかし、イエス様が期待する生き方の変化は、「そのままだったらお前たちは滅びるんだぞ!」という脅迫によって起きるようなものじゃありません。
イエス様は、神様の恵みと祝福は、すべての人の上に、無条件に、一方的に注がれていると宣言します。
神の恵みと祝福は、働きの対価として得る賃金ではありません。人よりも優れたことをしたことによって獲得する賞でもありません。
3年間も実を結ばないイチジクの木は、切り倒されて当然です。実を結ばない木を切り倒し、根を引っこ抜いて、新しい木を植えた方がいいに決まっています。
でもイエス様が示された神様は、切り倒さずに、木の周りを掘って、肥やしを入れてくださるんです。恵みと祝福を、さらに注いでくださるんです。
「でも次の年にも実を結ばなかったら、切り倒されちゃうんじゃないですか?」と心配する必要はありません。
なぜなら、神様の前には、無限の「もう1年」があるからです。
イエス様が、実を結ばないイチジクの木の物語を通して私たちに教えておられるのは、「私たちは、受けるに値しない恵みと祝福を受けているんだ」ということです。
そのことに気づき、心の内に感謝が溢れたなら、その時こそ、イエス様が期待する「生き方の変化」が起こります。
もはや自分の悪に気付かぬフリをしながら「難民を追い返せ」などとは言えません。真実から目を背けながら、ガザの虐殺を擁護することもできません。
溢れる感謝は祈りとなり、そして祈りはいつか実を結びます。
切り倒されてもおかしくない木なのに、切らずに生かし、実を結べるように手入れをしてくだる神様に、感謝と賛美を捧げましょう。
