









3月30日(日)大斎節第4主日(C 年)
ヨシュア5:9-12; IIコリント5:16-21; ルカ15:1-3,11b-32
今朝の福音書朗読の物語は、「放蕩息子の例え話」として知られています。この「放蕩息子の例え話」は、イエス様の例え話の中で、もっとも愛された物語の一つではないでしょうか。
エルミタージュ美術館に所蔵されている、レンブラントの「放蕩息子の帰郷」(Return of the Prodigal Son)も、この物語が題材となっています。
そして、皆さんの中にもきっと、「放蕩息子体験」をした方が、沢山おられるでしょう。
子ども時代には日曜学校に行っていた方が、定年退職後に教会に戻ってくるとか、就職や結婚のタイミングで教会から離れて、何十年後かに教会に戻ってくるというのは、よくある話です。
かくいう私自身も、小学校時代は母親に強制されて日曜学校に通わされていましたが、中学生になると同時に、教会を離れました。
中学3年の夏休みに教会に戻ったので、教会離れの期間はそれほど長くありませんでしたが、放蕩息子の例え話を読むたびに、自分のことを言われているような気がしました。
放蕩息子体験をしたことのある人は、同じような思いで、今日の福音書朗読を聞かれたかもしれません。
ところで、この「放蕩息子の例え話」の父親には2人の息子がいます。
私たちは自然に、当たり前のように、弟と自分を重ねて物語を読みます。
そして、帰って来た弟のために祝宴を開いてくれる父の姿に、自分のことをも迎え入れてくれる神様を見て、安心します。
しかし、弟と自分を重ねて物語を読み進めて、祝宴の喜びで終わるかと思ったそのとき、そこに参加することを拒み、弟のために大パーティーを開く父親を嫌みたらしくディスる兄が登場します。
「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか」。
そう語る父とは正反対に、ふてくされ、腹を立てている兄。
私は、「放蕩息子の例え話」を読む度に、「この兄ちゃんが出てこなければ、もっといい話なんだけどな~」と思ったものでした。
でも、この感じの悪い兄ちゃんの扱いに困っているのは、私だけではないと思います。
私たちがこの兄の扱いに困るのは、映画やドラマを見るとき、物語を読むとき、私たちが無意識に、自分を主人公に重ねるからです。
主人公の立場で物語の筋を追う時、私たちは決して、悪役にはなりません。
ヒーローやヒロインに対して嫌なことをするのは、自分以外の誰かです。悪役と自分を重ねはしないわけです。
子どもがスーパーヒーローごっこをして遊ぶ時も、みんながヒーローになりたくて、悪役にはなりたいと思う子はいません。結局、一番声の小さい子や、一番腕力の弱い子が、悪役をやらされます。
そうして、現実には、ヒーロー気取りが一番悪いという、どっかの国の大統領のようなことになるわけです。
映画や物語の中では、ヒーローは最初から最後までヒーローで、悪役は最初から最後まで悪役です。しかし現実の世界では、同じ人が、ヒーローにもなり、悪人にもなります。誰の中にも天使と悪魔がいます。
放蕩息子の例え話を読む時、私たちは弟息子に自分を重ねて読みます。けれども私たちの中には、宴会場の前でふてくされ、ブー垂れてる兄もいます。
自分の中にいるのに、その存在を忘れられた兄は、神の国を指し示す共同体になろうとする教会にとっては、大きな妨げになります。
自分がこれまで担って来た働きは、自分が元気な内は誰にも譲りたくない。
自分がしていることを、他の人がしているのを見るとイラッとくる。
自分が活躍するのはいいけれど、新しいメンバーが、新しい賜物を用いて活躍する姿を見ると妬ましく思う。
そういうことが、教会の中でもないわけではありません。いや、実は、意外とありがちなことです。
私たちは誰もが、「放蕩息子」として洗礼を受けて、教会生活を始めます。
むしろ、私たちは放蕩息子だからこそ、イエス様に生き方を修正してもらうために、洗礼を受けて、教会生活を始めるんだと言う方が正しいかもしれません。
でも、教会生活が長くなると、気付かぬうちに、兄息子が自分の中で成長します。
だからこそ私たちは、自分の中にいる兄息子に目を向けることが必要です。
今年のイースターには、5名の方が洗礼を受ける予定です。本当に素晴らしいことです。
自分よりも後に教会に来て、洗礼を受ける人たちを迎える時、放蕩息子の自分が神様に迎えられ、祝宴の食卓へと招かれたことを思い出してください。
放蕩息子の自分に帰り続ければ、放蕩息子だった自分を忘れなければ、私たちは教会を開いておくことができるはずです。
放蕩息子の自分に帰り続ければ、新しく教会にやってくる放蕩息子たちを、喜んで迎えられるはずです。
それは、父に、神に抱きしめられ、祝宴に招かれた放蕩息子と兄が共に、父に似た者へと変えられていくということです。
一人一人が、放蕩息子の自分を忘れずに、新たな放蕩息子たちを喜んで迎えることができたなら、聖マーガレット教会は、神の国の祝宴の喜びと豊かさを世に示す共同体になれるでしょう。
私たちを祝宴に招いてくださった神様が、放蕩息子の自分を、いつも思い出させてくださいますように。
