







2025年4月6日大斎節第5主日
イザヤ43:16-21; フィリピ3:4b-14; ヨハネ12:1-8
先週、3月30日の日曜日、聖オルバン教会からトマス・アッシュさん、岡フランセスさん、そしてテッドさんをお迎えして、オルバン教会を拠点として行われている難民宣教の働きについて話を聞く機会が与えられました。
2018年、オルバン教会の聖書勉強会の参加者たちが、マタイ福音書25章の「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」という言葉に動かされて、Deeper Service Groupを立ち上げました。
最初は、入管に収容されている人たちの声を聞くボランティア活動として始まりましたが、コロナ禍を経て、Deeper Service Group は、「想定外」の方向へと進んでいくことになりました。
今、彼らは、毎月平均、120人の難民・移民の方々を聖オルバン教会の礼拝に迎え、礼拝後には彼らの言葉に耳を傾けます。
毎月第1日曜日には、教会員や協力者から寄せられた食料品、日用品、洋服を提供し、さらに医療費、光熱費、家賃を払えなくなった人の緊急財政援助や、礼拝に参加するための交通費の援助まで行っています。
3月30日に来てくださったテッドさんは、コンゴ共和国から逃れて、今、難民申請をしている方です。
彼はコンゴ民主共和国からやって来た他の15人の難民申請者と共に、都内の公園で寝泊まりをしていました。
20名近くの難民が公園で寝泊まりしていると聞いたDSG (Deeper Service Group) のメンバーたちは、彼らの様子を見に行くことにしました。
トマス・アッシュさんは、本当は彼らに会いに行きたくなかったそうです。会ってしまったら、何もせずにはいられなくなるからです。
紆余曲折を経て、彼らは目白聖公会の牧師館をシェルターとして、一時滞在できることになりました。
DSGのメンバーたち、当時の藤田誠執事が彼らの元を訪れ、支え、そして彼らと一緒に食事をしました。こうして、そこに、一つのコミュニティーが生まれました。
トマス・アッシュさんは、その時のことを振り返りながら、恵みに満ちた、素晴らしい祝福の時だったと言われました。
そして彼は、難民宣教の働きを、「恵みの交換」と表現されました。
DSGのメンバーたちは、何かを見返りに得ようとして、難民宣教の働きをしているわけではありません。そこに損得勘定など一切ありません。
彼らはナザレのイエスに倣って生きることを願う人たちなので、苦しむ人の姿を見て、居ても立っても居られなくなり、自分にできることをしようと思っただけです。
イエス様が、病に苦しむ人を癒やされる時に働いた、同じ憐れみの心。それが彼らを突き動かしました。
しかし、命の危機に晒された者と、憐れみの心に動かされた者とが出会う時、予想外の恵みと祝福が、双方の上に注がれます。
トマス・アッシュさんの言うところの、「恵みの交換」です。DSGの創設メンバーの一人である岡フランセスさんは、5月17日に執事として按手を受けますが、それも「恵みの交換」の現れかもしれません。
今日の福音書朗読は、ベタニアのマリアが、イエス様の足を「洗う」物語です。
福音書の中には、「イエス様が誰かに足を洗ってもらう」という話は、今日の箇所と、ルカ福音書の7章にしかありません。
ベタニアのマリアがイエス様の足を香油で濡らし、髪で拭う出来事は、ヨハネ福音書の中で、絶対的な価値を与えられています。
ヨハネ福音書のイエス様は、自分に倣う者たちに、互いの足を洗い合うようにと命じます。
ということは、ヨハネ福音書の流れに沿って言えば、ベタニアのマリアこそが、ナザレのイエスに倣って生きることを願うすべての人にとってのロールモデルだということになります。
いえ、それどころか、イエス様は十字架にかけられる前に、ベタニアのマリアが自分にしてくれたことを、弟子たちに対して行いました。
そして、同じことをするようにと、すべての弟子たちに命じたんです。
それは、ベタニアのマリアが自分にしてくれたように、すべての人がするようにという命令です。
ベタニアのマリアの行動は、利益の最大化を求める考え方にも、功利主義的な考え方にも合いません。
彼女は、自分の持っている香油がいくらで売れるか、それを売ったら、何人の人が、どれだけのパンを食べられるか、計算をしていません。
彼女は、自分のありったけのものをもって、イエス様に仕えたかっただけです。それは、イエス様に対する溢れる愛です。
それはマリアにとっての喜びであり、それを受けたイエス様にとっても、何ものにも変え難い喜びでした。
そして、私たちがナザレのイエスに倣って生きることを願うなら、時には計算を諦めることも必要です。特に、人の命が関わっている場面ではそうです。
難民問題を通して見える日本の姿は、「ひどい」と「異常」の二言に尽きます。
この国は、亡命者や難民申請者を人と見なしていません。2023年のデータでは、13,823件の難民申請の内、74件しか難民認定されていません。認定率0.5%です。
難民申請をしている間、彼らは「非定期滞在者」か「仮放免」状態となります。
働くこともできず、保険にも入れず、国はおろか県境を超えて移動することさえできません。
難民審査参与員は111人おり、一人の参与員が審査できるのは、年30人が限度だと言われています。
ところが「難民認定を出さない」ごく数人の難民審査参与員が、年に1,000件を超える審査をしています。
逆に、「難民認定を出す」審査員には、ほとんど審査が回ってきません。
これは一体、誰の陰謀でしょうか?もちろん政府の陰謀です。ちなみに政府の陰謀は「政策」(policy)という隠語で呼ばれます。
この国の現実を、世界の現実を、目を開き、耳を開き、心を開いて見るならば、政治と経済の中心に巨大な悪があることに、必ず気づきます。
それは必然的に、自分もその悪に加担していることに気づくことでもあります。
しかし、ナザレのイエスに倣って生きようとする私たちは、自分も悪に加担していることを認めながら、悪と戦うことを諦めません。
自分も関わらざるを得ない悪を、正当化することも退けます。
そして、苦しみ、命の危険に晒されている人に遭遇した時、私たちは計算を捨てます。ナザレのイエスの言葉に聴き、国の論理を退けます。
そして、トマス・アッシュさんが、岡フランセスさんが、Deeper Service Groupのメンバーたちがしたように、私たちも、ただ憐れみの心に動かされて、「今できること」をします。
苦しむ人を前にして計算する人は、結局、何もしません。「できなくなるかもしれないからやらないでおこう」となっちゃうんです。
でも、ナザレのイエスに倣って生きることを願う私たちは、周辺化された人々、そこに存在しているのに、存在しないことにされている人々と、小さな喜びを共有することを諦めません。
自分にできる小さなことをすることを諦めません。彼らと共に生きようとすることを諦めません。
計算を諦めて、憐れみの心に突き動かされる時、それこそナザレのイエスが共におられる時、神様が大きく働かれる時です。
