復活前主日 説教

2025年4月13日(日)復活前主日

イザヤ50:4-9a; フィリピ2:5-11; ルカ23:1-49

今日のひじょ〜に長い福音書朗読の中で、もっとも重要なポイントは、ナザレのイエスは政治エリートの利害のために、彼らの罪の故に、スケープゴート(scapegoat)として殺されたということです。

 これは、この世の政治エリートにつきものの、いつの時代にもある、「罪」です。

 イエス様の前にも、後にも、十字架に掛けられた死んだ者は何十万人もいます。ですから、イエス様を十字架につけた「世の罪」に、特別なことは何もありません。

 むしろ、今朝、私たちが注目するべきなのは、イエス様を十字架につけて始末したいと思った政治エリートの巨悪に加担し、後押しする、群衆の側の「何気ない悪」です。

 ハンナ・アレント(Hannah Arendt)という著名なユダヤ系ドイツ人哲学者は、全体主義的な政治と巨悪の問題について鋭い分析を展開し、多くの考察を残しました。

 彼女は『イェルサレムのアイヒマン』(Eichmann in Jerusalem)という著作の中で、「悪の凡庸さ」(The Banality of Evil)について語っています。

アイヒマンは、ナチス政権下で、ユダヤ人移送計画の責任を負う官僚、役人でした。端的に言えば、彼がヨーロッパのユダヤ人を強制収容所送りにする責任者だったわけです。

 もちろん、アイヒマンは強制収容所に送られたユダヤ人の運命を知っていました。しかし彼は、良心の呵責を微塵も感じることなく、ユダヤ人を強制収容所に送り続けます。

 アレントによれば、ユダヤ人を強制収容所送りにする責任者だったアイヒマンは、狂信的怪物でもなければ、何らかの主義主張の熱烈な支持者でもありませんでした。

 何も考えず、盲目的に命令に従うだけの、ごく普通の官僚的役人。そのことにアレントは驚きます。

 そして彼女は、政治エリートの巨大な悪を実現可能にする、無関心と思考停止に根ざした「普通の人」の「何気ない悪」を、「悪の凡庸さ」と呼んだのです。

 ヒトラー、ネタニヤフ、トランプといった「悪の権化」のような政治エリートの登場を許し、彼らの暴虐を可能にするのは、「普通の人」の無関心と思考停止であることを、ハンナ・アレントは示したわけです。

 ヨーロッパの反ユダヤ主義に乗じて巨大化したシオニズムは、偽りのイスラエルを生み出し、この偽りのイスラエルは、パレスチナの地で、ナチスの巨悪を反復しています。

2千年前に、政治エリートたちがナザレのイエスを抹殺したいと思った時に、それを支えた普通の人間の「凡庸なる悪」。

その「凡庸なる悪」の破壊力を、私たちは今、目の当たりにしています。

「偽りのイスラエル」は今、1948年の建国当初からの「夢」を実現しようとしています。それは、パレスチナの地から、パレスチナ人の痕跡を、彼らに関する記憶を、完全に消し去るという「夢」です。

 この夢の実現を可能にしているのも、アメリカを中心とする西洋世界の政治エリートの罪と、無関心と思考停止を続ける、私たち市民の「凡庸なる悪」です。

 すでに1世紀に渡って、平和、尊厳、正義、人権を奪われ、苦難を負わされてきたパレスチナの人々が、今、その存在を完全に消し去られようとしています。

 しかも、パレスチナ人の虐殺は、日々、私たちの手の中で、スマホの画面の上で起きています。

 Telegram, TikTok, XやInstagramにすら、現地に残る独立系メディアや、市民の投稿が毎日上がります。

 知る気さえあれば、スマホの画面をクリックし、スライドすれば、偽りのイスラエルがパレスチナ人に対して行なっている、ありとあらゆる残虐行為を、誰でも知ることができます。

 ですから、私たちの誰一人として、この虐殺について、知らなかったとは言えません。

 この虐殺は、欧米諸国によって支えられ、全世界の目の前で行なわれた虐殺として、歴史に刻まれます。

 そして、この虐殺から目を背け続け、沈黙を守り続けた教会とそのメンバーたちは、人の尊厳、人権、平和、正義について、罪や悪について語る資格を、完全に失うことになります。

 私は、聖マーガレット教会が、今も、5年後も、10年後も、神の国のヴィジョンを生きる共同体として存続していることを祈り、願っています。

 この世の政治エリートは、ナザレのイエスを始末することで、彼が語った神の国のヴィジョンを終わらせようとました。

 しかし、この世が終わらせようとしたものを、神は終わらせませんでした。

 そのことを、私たちは来週の日曜日、いえ、毎週日曜日、イエスの名によって集まる度に覚え、祝うんです。

 この世の政治エリートが、ナザレのイエスと共に消し去ろうとした神の国のヴィジョンを、神は終わらせなかった。

 そこに、私たちの希望があります。そこに、死すべき体にあって生きる命と繋がりながらも、それを超える、永遠の命の希望があります。

 私たちを「悪の凡庸さ」から解放してくれるのは、この希望です。

 祈り、学び、真実を知り、情報を共有し、連帯し、小さな行動を積み上げることによって、私たちはナザレのイエスを十字架につけたこの世の政治エリートの罪と戦い、神の国のヴィジョンを生きることができます。

 ナザレのイエスを死から起こされた神が、私たちを「悪の凡庸さ」から解放し、神の国のヴィジョンを生きる者としてくださいますように。