








2025年4月19日(土)聖土曜日
この聖土曜日は、金曜日の十字架の苦しみと、日曜日の復活の喜びの「間の時間」です。
教会の暦では、聖土曜日は年に一度しかやって来ません。しかも今晩眠って、朝を迎えれば、それは自動的に、「復活の喜びの日」となります。
しかし私たちの人生の中には、少なくとも何度かは、復活の見えない聖土曜日のような時間が訪れます。しかも、それがいつ終わるのかわかりません。
聖金曜日と復活日の間の、聖土曜日の時間。それはさまざまな「死」の中で過ごす時間です。そして「死」にはいつも絶望が伴っています。
理不尽な出来事、暴力と抑圧、人としての尊厳を否定するような言葉。それらは人々の心を、魂を殺します。
「あなたと一緒にいるところを見られると、私まで目をつけられちゃうから、私に話しかけないで。」
「あんたのことなんて生まなければ、私はもっと幸せになれたのに。」
この会社に、お前みたいな使えないヤツを置いておく場所はないんだよ。
また、聖土曜日の時は、体は辛うじて生きていても、心と魂が死んでいる時です。
怒りに任せて怒鳴り散らし、殴る蹴るの暴行を加える父親に怯える子ども。
引きこもりになって暴れ狂う息子に怯える親。
学校で待ち伏せしていじめる同級生に怯える生徒。
二人の子どもの父である夫が、治療不能なガンに犯されていることを知らされた女性。
十代で命を落とした子どもの葬儀をしなければならない親。
77年に渡り、終わることのないナクバの中で生きるパレスチナの人々。
これらの人々は、聖土曜日の死と絶望を生きています。
しかし聖土曜日は、「死」から「新しい命」に向かって、「絶望」から「希望」に向かって、何かが動き始める時でもあります。
聖土曜日を生きる人たちに出会ったとき、イエス様の中で、憐れみの心が動かされました。イエス様が、聖土曜日の死を、絶望を生きる人々を癒したいと思った時、神の力が彼を通して働きました。
明日、復活日を迎えても、多くの人々が置かれている「聖土曜日」は終わりません。
けれども、死の中に置かれた人々、絶望の中に置かれた人々に出会い、憐れの心が動かされる人々がいるところでは、絶望から希望に、死から新たな命へと、何かが動き出します。
ナザレのイエスを死から新しい命へと起こされた神が、私たちを「聖土曜日を生きる人々」に出会わせ、心を揺り動かし、絶望から希望に、死から新たな命に、何かを動かす者たちの群れとしてくださいますように。
