復活節第5主日 説教

2025年5月18日(日)
使徒11:1-18; 黙示録21:1-6; ヨハネ13:31-35

昨日、東京タワーの下にある、聖オルバン教会で、岡フランセスさんの執事按手式が行われました。

岡フランセスさんは、3月30日の大祭研修の時に、トマス・アッシュさんと一緒に聖マーガレット教会に来られました。研修会で主にお話をしてくれたのは、入管の闇を描いた映画、「牛久」を作った映画監督のトマス・アッシュさんでした。


でも、聖オルバン教会を拠点にして行われている難民宣教の働き、Deeper Service Groupの責任者と言いましょうか、リーダーは、岡フランセスさんです。フランセスさんは、学校の教員として仕事を続けながら、Deeper Service Groupと聖オルバン教会の働きを支えることになりますので、他教会に派遣されることはありません。


ここには、これからの教会のあり方を考える上で、非常に本質な、しかし東京教区でも、恐らく管区レベルでも、ほとんど語られることのない問題があります。


元々、初期の教会には、「普遍的教会」の主教として、司祭として、執事として按手するなどという考え方は、まったくありませんでした。本来、各共同体は、自分たちの中から、特定の働きのために必要な人材を生み出し、その人を、その働きに割り当てました。


岡フランセスさんは、聖オルバン教会のDeeper Service Groupの働きのために、聖オルバン教会の中から生み出され、難民宣教のために執事按手を受けました。それは、教会として極めて自然で、健全なことです。


しかし、この当たり前のことが、当たり前に行われず、当たり前のこととして語られてもこなかったために、今、教会はジリ貧となっています。


聖マーガレット教会が展開するミニストリーを担う人を、聖マーガレット教会から生み出し、育てる。そこに、聖マーガレット教会が神の国を指し示す共同体として成長し、Jesus Movementとして動き続けていくための鍵があります。


さて、実は、昨日の按手式の後、改めて、帝国主義と植民地主義に結びついたキリスト教を乗り越えて、Jesus Movementを再生する必要性を強く感じさせられました。


というのは、按手式後のパーティーの場で、日本でたった一人のウクライナ正教会司祭と出会い、話をすることになったからです。


4世紀以降、教会は世俗政治の中に取り込まれるようになりました。画一性を強要する教義も、普遍的教会への按手という慣習も、ローマ帝国の意向と大いに結びついて発展してきました。


ローマ帝国の国教となった教会は、ローマ帝国の政治に、イングランドの教会は大英帝国の政治に、アメリカの教会はアメリカの政治に、ロシアの教会はロシアの政治に、ウクライナの教会はウクライナの政治に取り込まれます。


そして教会は、この世の権力者たちの領土争いの結果として引かれた「国境線」によって分断されることを受け入れてきました。その結果、教会は世俗権力に仕える僕となり、領土と資源とを獲得するための野心的戦争を、神の名によって祝福することが「当たり前」になりました。

トランプとネタニヤフは今、220万人のガザ住民をすべて、エジプト、ヨルダン、リビアに強制移住させることを画策しています。


1948年のイスラエル建国前夜、シオニストたちはパレスティナの12の街を破壊し、500以上の村を破壊し、無差別殺戮と拷問とレイプを繰り返し、80万人のパレスティナ人から故郷を奪い、難民にしました。


そして今、偽りのイスラエルは、220万人のガザのパレスティナ人を駆逐し、ヨルダン側西岸地区のパレスティナ人居住地区を破壊し、1948年来の悲願であった、パレスティナ全土の乗っ取りを完成させようとしています。


この悪魔的な計画を実現可能にしたのは、大英帝国の軍事力と、これに宗教的意義づけを与えた Chruch of England であり、大英帝国の帝国主義を引き継いだアメリカとクリスチャン・シオニストたちです。


今朝の福音書朗読のイエス様は、「互いに愛し合う」という新しい戒めを弟子たちに与えます。そして、共同体のメンバーが互いに愛し合うならば、共同体の外の人たちは、彼らがイエス様の弟子であることを知るようになると言います。


もし、イエス様が命じたように、互いに愛し合い、互いに仕え合おうとする共同体がこの世にあれば、人々はそこに、イエス様が語った神の国の平和、喜び、豊かさを見出すでしょう。


けれども、イエス様が命じたように愛することは、民族の違いや、国境線を前にして止まるようなことではありません。イエス様は、神様の愛と恵みと祝福は、境界線を知らないと信じていました。


「44 敵を愛し(なささい)。45 父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5:44, 45)という言葉は、そのことを端的に表しています。

しかし残念ながら、ヨハネ福音書の著者は、愛に境界線を設けてしまいました。ヨハネ福音書のイエス様が語る愛は、共同体の外側に出ていくことがないんです。


けれども、太陽の恵みは、民族の違いを知りません。恵みの雨は国境線など知りません。もちろんどちらの恵みも、特定の共同体の内側に留まることなどありません。


それだからこそ、教会が神の国を指し示す群れであり続けるためには、民族という神話によって、恣意的な国境線によって、人々を分断しようとするこの世の政治に、徹底的に抗わなければなりません。


イエス様が私たちに教えたのは、民族を超え、境界線を超えて、互いに愛し合う者たちの共同体が成長していくところにしか、本当の平和は現れないということです。
Jesus Movementのアジェンダを、そのポリシーを決定するのは、この世の政治ではありません。この世の支配者ではありません。

 私たちの共同体を導く政策は、ナザレのイエスが語った神の国です。この世の政治と、イエス様が語った神の国の政治が一つになることはない。

 そのことを忘れて、この世の政治に教会が取り込まれる時、教会は平和の破壊者となります。

願わくは、聖マーガレット教会が、互いに愛することにおいて、共同体の枠を超えて成長し、平和の器とされますように。