





2025年5月25日(日)
使徒16:9-15; 黙示録21:10,22-22:5; ヨハネ5:1-9
今日は復活節第6主日ですが、この日は昇天日直前の日曜日に当たります。昇天日は、復活日から40日目の木曜日です。
今朝の福音書朗読の中には、「私は去っていく」、「父のもとに行く」という言葉が出てきました。
この言葉を、聖書日課を作っている人たちは、イエス様の昇天の予告として捉えています。
同じことを反対から言うと、「私は去っていく」、「父のもとに行く」という言葉を、「昇天」の予告として「使える」と考えて、昇天日直前の主日の福音書朗読として、この箇所が選ばれているということです。
けれども、ヨハネ福音書には、キリストの「昇天」も、「聖霊降臨」もありません。
「昇天」と「聖霊降臨」という物語は、『ルカ福音書』と著者が創作した物語で、ヨハネ福音書の著者は、共通の問題に対して、別の物語を語ります。
共通の問題というのは、復活のキリストの不在、終末遅延です。
復活のキリストの現れは長くは続きませんでした。しかも、すぐにイエス様が帰ってくるという期待も外れてしまいました。
「イエス様はまた来るからと言い続けて、すでに半世紀以上も経ったじゃないか!こんなのは来る来る詐欺だ!」そう言いながら、共同体から去っていく人たちだって、沢山いたはずです。
危機に直面し、動揺する共同体には、出来合いの答えも、問題解決のためのマニュアルもありませんでした。
では、それぞれのコミュニティーは、問題に向き合い、乗り越えるために何をしたのでしょうか?
彼らはJesus Movement として「再生」し、生き残るために、新しい物語を生み出したんです。
ヨハネ福音書は、キリストが父のもとに帰った後、残された弟子たちは聖霊によって導かれようになると語ります。
ヨハネ福音書のイエス様は、父のもとに帰る前に、復活のキリストとして、弟子たちに聖霊を与えます。
ヨハネ福音書によれば、イエス・キリストが父のもとに帰った後、残された弟子たちにすべてを教え、イエス様が語られたことを思い出させ、解き明かしてくれるのは、聖書ではありません。
それは ‘παράκλητος’ 、弁護者なる聖霊です。26節で「弁護者」と訳されている ‘παράκλητος’ というギリシア語は、ヨハネ福音書にしか登場しません。
そしてヨハネ福音書によれば、この ‘παράκλητος’ なる聖霊こそ、イエス様の弟子たちにとって、唯一・絶対の導きの星です。
他方、第2朗読で読まれた『ヨハネの黙示録』の著者とその教会は、別の問題と向き合っていました。
それはローマ帝国という「野獣」です。ヨハネの黙示録の中には、明確な政治神学があります。
黙示録の著者は、暴力と抑圧によって人々を支配し、イエス様に倣う者たちを迫害するローマ帝国は、正義も公正も知らぬ「野獣」であり、神によって滅ぼされるべきだと考えています。
ですから、黙示録の著者は、ローマ帝国という「野獣」が滅ぼされて、「新しいエルサレム」が天から降って来るというヴィジョンを語ります。
黙示録の著者にとって、神の国の到来、救いの成就は、暴力と抑圧によって人を支配するローマという野獣にとって変わる、新しいエルサレムです。
新しいエルサレムに神殿はありません。父なる神と小羊が神殿だからです。
神の栄光と小羊キリストが照らす新しいエルサレムには、太陽も月も必要はなく、夜もありません。
新しいエルサレムの玉座に座る小羊キリストのもとからは、命の川が流れ、その川の両岸には、エデンの園にあった命の木があり、毎月実がなり、その葉はあらゆる民族の病を癒す。総黙示録の著者はそう語ります。
創世記の物語では、エデンの園の中央にある命の木の実を人が食べて、永遠の命を得ることがないようにと、神は人を園から追放し、命の木への道を塞ぎます。
黙示録の著者は、エデンの園にあった命の木を、新しいエルサレムに移植して、アダムとイヴには禁じられた永遠の命が、「命の書」に名前が記された者たちに与えられるんだと語ります。
この「新しいエルサレム」の物語は、黙示録の著者による、「神の国」の語り直しです。
この物語は、イエス様自身が決して用いることのなかったイメージや象徴に溢れています。
しかし、初期のJesus Movementの担い手たちはナザレのイエスについて、彼が語った神の国について、彼を通してなされた神の働きについて、解釈をし直し、新しい物語を生み出すことに、何のためらいも感じていません。
いえ、むしろ、それは当たり前のことであると同時に、必要なことでした。
置かれているそれぞれの時代、それぞれの場所で、異なる課題に向き合いながら、ナザレのイエスが始めた神の国の運動を引き継ぐ共同体として生きる。それが教会の使命です。
そのためには、ナザレのイエスが語ったこと、彼がしたこと、そして神様が彼を通して成されたことに常に立ち返り、新しい物語を生み出し続ける必要があるんです。
私たちは、今、私たちが置かれているこの世界の現実ついて、問題について、語らなくてはなりません。
ウクライナの戦争、ガザの虐殺、シオニズムに膝を屈めた西洋世界の没落、アメリカによるイラン攻撃で始まるかもしれない第3次世界大戦の危機、ロシア、中国、インドの台頭によって多極化する世界、気候変動による人類存亡の危機、拝金主義的新自由主義経済によって破壊される「普通の人々の生活」、アメリカへの従属によってアジアで孤立化する日本について、私たちは語らなくてはなりません。
それと同時に、神の国を指し示すコミュニティーとして、世界を癒し、平和を作り、人々が喜びと希望をもって生きることを可能にするような、新しいJesus Movementの物語を生み出し、語らなくてはなりません。
私たちはもはや、西洋の宣教師たちから受け取った「キリスト教」を、オウムのように繰り返しているだけではやっていけない世界に生きています。
私たちが、この時代に、この場所で、教会として存在し続けるためには、人々に喜びと希望を与え、新しい生き方を可能にする、新しい物語が必要なんです。
願わくは、弁護者なる聖霊が、新しいJesus Movementの物語を生み出す創造的想像力を私たちに与え、混沌とした世界に癒しをもたらし、平和を作り、喜びと希望を持って歩み続ける共同体として、聖マーガレット教会を成長させてくださいますように。
