












2025年6月1日(日)復活節第7主日
使徒16:16-34; 黙示録22:12-14,16-17,20-21; ヨハネ17:20-26
先週、5月25日の日曜日は5月の第4主日だったので、夕方5時からユースの礼拝がありました。ユースの礼拝は、毎月第2・第4の日曜日と、第5日曜日まである月には、第5日曜日にも行われます。
アガペー・ミールという形の礼拝で、洗礼を受けていても、受けていなくても、参加者がみんな一緒に食べて、一緒に飲むことのできる礼拝です。
ユースの礼拝のもう一つの大きな特徴は、礼拝後に小グループでの分かち合いの時間があることです。
大体、3つのグループに分かれて、グループ毎に分かち合いをし、それぞれお祈りしてもらいたいことを出し合って、互いのために祈ります。
そして最後に、その日のトピックについて各グループでどんな意見が出たか、全体で分かち合いをします。
分かち合いのトピックは毎回違うんですが、前回は、「人はどのようにして無神論者になるか」でした。
あるグループの、あるメンバーが適切に指摘したように、「無神論」というのは一つの信仰の形態です。
「神が存在する」と信じることが、信仰の一つのあり方であるのと同じように、「神は存在しない」と信じることも、また信仰の一つのあり方です。
しかも、「無神論」という「信仰」を知的に突き詰めると、有神論者よりも困難な問題に直面することになります。
無神論者の中にも、幅といいますか、gradationがあるとしても、哲学的に突き詰めれば、「無神論」という信仰は、「『意識』、『思考』、『自由』なんてものは幻想で、あるのはモノ/物質だけだ」というところに行き着きます。
「私たちの脳も物理法則に従って動いているだけで、意識とか思考なんてものは幻想なんだ。すべては物理法則に従っているだけなんだから、自由なんてないんだ」。それが無神論の主張です。
実際には、朝ごはんに何を食べるか、休日をどう過ごすか、どこの大学に行くか、どんな仕事につくか、自由に選んでいる存在が、「自由なんて無いんだ」と自由を否定します。
意識を持った存在が、意識を否定します。考えている自分がいるのに、考えているわけじゃないんだと主張します。
自分で選んでいるのに、本当は選択なんかしていないんだと言い張ります。
このように、無神論という信仰は、人が、人として、毎日、当たり前にやっていることを否定することによって、「信仰」として成立することになります。
ところが、「無神論」という信仰を表明する人たちの最も無自覚で、最も興味深いところは、誰一人、その信仰に従って生きてはいないということです。
私は小学校時代、学校の行き帰りの道で石ころを見つけると、石を蹴りながら歩いたものでした。
何百という石を蹴って歩いたと思うんですが、「なんでオレのことを蹴るんだ!」と怒る石に、まだ出会ったことがありません。
もし、無神論を信じる人が、本当にその信仰に従って生きているとしたら、モノしかないと信じているなら、人と石ころとの間に何も違いはありません。
ところが、「物質しかない。意識も精神も自由も無い」と言っている人が、横っ面をひっぱたかれると、10人中10人が怒ります。
無神論を突き詰めれば、人間と石ころの違いは無くなるはずなんですが、無神論者が、「私はモノに過ぎないので、私には人権などありません」と言っているのを聞いたことはありません。
私は長いこと、意識や精神をめぐる研究者たちの議論に関心を持って、その動向を見守ってきました。
非常に興味深い一つの展開は、かつては素朴な無神論者だった物理学者のMichio Kakuや、哲学者のDavid Chalmersのような人たちが、物質から意識や精神を導き出すことができないと認めるようになったことです。
さらに彼らは、「精神」や「意識」を、全宇宙の根源的な存在だと言って、無神論・唯物論と正反対の立場を表明するようになりました。
哲学史の流れを振り返ると、Michio KakuやDavid Chalmersの立場は、スピノザやヘーゲルと同じ汎神論、あるいはその変形版だと言えると思います。
しかしほとんどの人々は、彼らのような知的探究の結果として、有神論者になったり、無神論者になったり、あるいは汎神論者になるわけではありません。
先週のユースの分かち合いの中でも、すべてのグループのメンバーが、そのことを指摘しました。
人はむしろ、祈りが聞かれなかったり、不条理な苦しみを経験したりして、神様に対する期待や信頼、神様のイメージが壊れて、失望し、その失望の結果として、無神論者になるんじゃないか、と。
思想史的に見ても、これは極めて正しい指摘だと言えると思います。
というのは、無神論という信仰は、西洋のキリスト教世界の中から生まれて、唯物論という知的装いをまとうようになったからです。
西洋世界で世俗化が進み、多くの人が無神論者になったのは、哲学や自然科学が、神は存在しないと証明したからではありません。
そもそも、人はキリスト教の教義を通してナザレのイエスに出会うこともなければ、彼を通して現された神に出会うこともありません。
私は、超保守的なファンダメンタリストだった時代に、フランシス・シェィファという人が書いた、キリスト教弁証論の本を読み漁りました。
若かりし頃の私は、キリスト教の正しさを論理的に説明すれば、人々はキリスト教を受け入れると思っていました。
けれども、そんなことはまったく起こりませんでした。
しかも、私がキリスト教の正しさを証明するものだと思って一心不乱に学んだ「弁証論」は、ナザレのイエスとも、彼を通して現れた神とも、何の関係もありませんでした。
教会が地下組織で、キリスト教が違法な宗教だった2世紀、3世紀、人々は神学者が語るキリスト論や、三位一体論といった教義を聞いて、クリスチャンになろうと思ったわけではありません。
人々は、疫病に倒れている人々を手篤く看護し、亡くなって路上に放置されたままの遺体を葬る人々の姿に、「この世に無い」何かを見、彼らの姿の中に、イエス・キリストを見ました。
そして、多くの人々が、自分もあのコミュニティーの仲間になりたいと思ったのです。
そのために、教会は非合法地下組織であったにも関わらず、成長を続けました。
しかし帝国主義と結びついた教会は、個人の罪や道徳的生活について口やかましく説教しながら、奴隷貿易、植民地の拡大、植民地での民族浄化、強制改宗、そして戦争といった、国を後ろ盾とする、ありとあらゆる悪を支えてきました。
西洋世界で世俗化が進み、人々が教会も、教会が語る神も必要としなくなったのは、西洋世界の教会が、ナザレのイエスから遠く離れて、彼が示した神を見えなくさせた当然の結果だと、私は思います。
帝国に仕える教会は、帝国と共に滅びるんです。しかしそれは、イエス様を通して現れた神様がいなくなったということではありません。
ただ、教会によって、隠され、見えなくなっただけです。
もし私たちの共同体が、私たちを遣わしたイエス様と一つであるなら、私たちが彼の言葉を生きることができたなら、イエス様が示された憐れみ深く、恵み豊かな神様の姿が、今、この時、この場所で、再び現れます。
聖マーガレット教会が、神を隠す教会ではなく、ナザレのイエスの示された、憐れみ深く、恵み豊かな神を世に現す共同体とされますように。
