






2025年6月8日(日)聖霊降臨日
創世記11:1-9; 使徒2:1-21; ヨハネ14:8-17
パレスチナの地で最初に Jesus Movement が生まれたとき、大部分の活動メンバーはユダヤ人でした。ただし、使徒言行録やヨハネ福音書が書かれた時代には、サマリア人も、その他の外国人も、共同体のメンバーの中にいました。
イエス様が宣教活動をしていた時代、ユダヤ人の65%から70%は、外国生まれで外国育ちでした。彼らはギリシア語で ‘διασπορά’ と呼ばれていました。「散らされた者たち」という意味です。
しかし、その頃にはまだエルサレムに神殿があって、この神殿がユダヤ人社会の中心だったので、大きなお祭りのときには、ディアスポラ・ユダヤ人もエルサレムにやって来ました。
けれども、使徒言行録が書かれたのは、エルサレム神殿崩壊後の時代です。その頃には、ディアスポラ・ユダヤ人率は更に上がって、75%から80%を占めるようになっていました。
ディアスポラのユダヤ人の第一言語は生まれ育った国の言葉ですから、彼らの大部分は、パレスチナ・ユダヤ人の話すアラマイ語も、旧約聖書が書かれたヘブライ語も理解できませんでした。
ユダヤ人人口の8割が、旧約聖書の言葉も、イエス様の言葉もわからない。それが、使徒言行録の聖霊降臨物語の歴史的背景としてあります。
今朝、第2朗読で読まれた『使徒言行録』と、『ルカによる福音書』は、元々一つの書物の前編と後編でした。
著者は、前編のルカ福音書に描かれている「イエス様の生涯と宣教活動」と、後編の使徒言行録で展開される教会の宣教活動の拡大を、聖霊を「影の主人公」とする一つの物語として描こうとしました。
聖霊はイエス様が母マリアの胎に宿る時、さらにはその前に、バプテスマのヨハネが母エリサベトの胎内にいるときから、すでに働きを開始しています。
そして、この聖霊が、イエス様の生涯の全体を貫き、導いています。
使徒言行録でイエス様の宣教活動を引き継ぐのは、使徒たちを中心とする教会です。
今朝の第2朗読の箇所で、著者はこう言っているんです。聖霊が使徒たちたにさせた最初のことは、ディアスポラア・ユダヤ人たちに、彼らの母国語で、イエス・キリストの福音を語ることだった、と。
聖霊を受けた使徒たちは、外国語で、13の言語で、十字架の上で殺され、墓に葬られ、新しい命に起こされ、弟子たちの前に現されたイエス・キリストについて語ります。
ユダヤ人という民族の壁を超えて、すべての民にイエス・キリストの福音が宣べ伝えられることは聖霊の働きであり、神の御心にかなう出来事なのだ。
聖霊降臨の物語は、そのことをあらかじめ示そうとしているんです。
聖霊が、使徒たちに外国語で福音を語らせる。この出来事は、旧約聖書の創世記にある、バベルの塔の物語で語られている出来事と、反対方向の出来事だと言えるかもしれません。
バベルの塔建設の物語では、一つの言葉・言語を話す人々が、偉大な都市を築くことによって、自分たちが散らされるのを防ごうとします。
バベルの塔建設を導く言語は、自分たちの偉大さを示すことによって、自分たちの栄華をひけらかすことによって、統一を保ち、自己保存を目指す言語です。
これに対して、聖霊は、言語的多様性を排除することもなければ、「1つの言語」をすべての人々に強制することもありません。
これは帝国主義が目指すところと正反対です。帝国主義は、支配者の言語を、すべての人に押し付けようとします。大日本帝国は、アイヌに、琉球に、朝鮮半島に、日本語を強制し、彼らの言語を禁じようとしました。
聖霊を受けたイエス様の弟子たちは、自分の成功話をするのでもなければ、自慢話をするのでもなく、ナザレのイエスについて、彼が語った神について、そして彼を通して現された神様について語ります。
聖霊を受けたイエス様の弟子たちも、バベルの民と同じように、散らされました。しかし彼らは、自分たちが散らされたところで、その土地の言葉で、イエス様のことを、神の国の福音を語りました。
キリスト教が世界中に広がるきっかけは、教会に対する迫害でした。パレスチナに誕生した最初の教会は、ローマ帝国における非合法地下組織でした。
迫害を受け、会堂から追放され、家も財産も失いって難民となったイエス様の弟子たちは、散らされていった所で、自分たちの受け入れられた場所で、神の国の福音を語り、そこに新たな共同体が生まれました。
新しく生まれた共同体は、難民として逃れて来たクリスチャンと、彼らの言葉を聞いてクリスチャンとなった人たちとが、共に生きる場となりました。
聖霊の風に吹かれて Jesus Movement が急速に世界中に広がっていったのは、出ていく者たちと、受け入れた者たちとの双方に、開放性があったからです。
イエス様の福音を、自分たちの中に留めておいたら、福音は広がりませんでした。難民として逃れて来たクリスチャンたちを受け入れ、彼らの言葉を受け入れる人たちがいなければ、新しい共同体は生まれませんでした。
アメリカはキリスト教の上に建てられた国だと主張する「クリスチャン」たちが、トランプ政権の移民排斥をもろ手を挙げて支持している姿は、彼らのキリスト教に聖霊はいないことをよく表しています。
しかし、同じことを、この国のクリスチャンについても、この国の教会についても言わなければならないのではないでしょうか?
難民条約を批准しているにもかかわらず、この国はほとんどの難民申請者を、不法入国者・不法滞在者として追い返します。
迫害を逃れ、自由を求めてやってきた人たちを、日本は受け入れません。
もし私たちが、彼らの苦しみや、非人道的で劣悪な境遇について無関心で、何の声も上げないのなら、私たちは難民を排斥する者であることを受け入れているということになります。
私たちがどれほど無力であろうと、ナザレのイエスが語った神の国のヴィジョンに従って、声を上げることはできます。誰もそれを止めることはできません。声を上げることは、お金が無くったってできます。今は声を上げる手段も沢山あります。
聖マーガレット教会が、聖霊の息吹を受けて、声を上げる教会であれますように。そして、その声に耳を傾けてくれる人たちと共に、新しいコミュニティーとなっていくことができますように。
