三位一体主日・聖霊降臨後第1主日 説教

三位一体主日・聖霊降臨後第1主日

2025年6月15日

箴言8:1-4,22-31; ローマ5:1-5; ヨハネ16:12-15

先週の日曜日、聖霊降臨日をもって、3月5日の灰の水曜日から始まった、長い長いイースター・シーズンが終わり、今日は三位一体主日です。

 三位一体というのは、「神の内部に父と子と聖霊の3つのペルソナがあり、ペルソナにおいては互いに異なるが、(それぞれのペルソナは)同じ神の本質を有する」という教義です。何を言っているのか分からなくても、気にせずにお聞きください。

 三位一体論は、325年のニカイア公会議で定式化されたことになっています。

 皇帝コンスタンティヌスは、ローマ帝国の統一に使えると見込んで、313年にキリスト教を公認しました。

 ところが、クリスチャンが皆同じことを考えているわけでも、同じことを信じているのでもないことが、すぐに明らかになりました。

 立場を異にするクリスチャンたちは、互いに対立し、その対立は殺し合いに発展するほど激しいものでした(アリウス派とアタナシウス派の対立に代表される)。

 非常に乱暴な言い方をすれば、帝国の統一のためにキリスト教を利用しようと思っていたコンスタンティヌスは、クリスチャンが互いにバラバラのことを言って、対立していることが気に入りませんでした。

 そこで、統一見解を出せと言って、325年に歴史上最初の公会議といわれるものをニカイア(現在のトルコのイズニック)に招集したわけです。

 クリスチャンでもないローマ皇帝が、教会の監督 (bishops) たちを招集し、一つの信条を作れと命じているというのは、かなり異様な話ですが、そういうことが現実に起こりました。

 コンスタンティヌスがにらみをきかせて、無理くり、ニカイア信条/ニケヤ信経を捻り出しはしたものの、それで対立する人々が仲良しになったわけでも、満足したわけでもありません。

 337年にコンスタンティヌスが死亡すると、再び対立が表面化し、381年にコンスタンティノープルで公会議が開かれ、一応、ニカイア信条が再承認されたということになっています。

 もちろん、「これで問題は綺麗さっぱり解決!みんなが同じことを信じるようになりました!」、なんてこととは起こりませんでした。

 さらに時が進むと、今度は、イエス・キリストの中で人としての性質と、神としての性質はどのようになっているのかということをめぐって、対立が激化します。

 この問題を「解決」するために、451年にカルケドン(イスタンブールの一部)で再び公会議が開かれ、「神性と人性の二つの本性(physis, nature)は、混合せず、変化せず、分かれず、離れることはない」と定義されました(カルケドン信条)。

 けれども、今回も、公会議の決議によって互いに対立していた人々が統一見解に導かれ、一つに結ばれ、平和が訪れる、ということにはなりませんでした。

 カルケドン公会議は、イエス・キリストの人としての性質と、神としての性質が共存しているという、いわゆる両性論の立場を採用しました。

 その結果、人としての性質は、神の性質に飲み込まれたと主張する単性論を主張する人々は「異端」と見做されるようになりました。

 しかし単性論の支持者は、最も古い教会の後継者であり、直接的かつ真正な使徒たちとの繋がりを保っている人々でした。

 ですからシリア、パレスチナ、エジプトの教会では、単性論が衰えることはありませんでした。

 単性論者と両性論者の対立と、互いに対する憎悪は凄まじいもので、血で血を洗う殺し合いに発展しました。

 Philip Jenkins という歴史家は、教会の歴史の中で、ある理解、ある解釈が、正統教義になるか、あるいは異端になるかを決めるもっとも大きな要因は、帝国の政治状況だったと言っています。私も同じ理解です。

 三位一体主日の今日、私たちにとって大切なことは、三位一体論やキリスト論を、正確に理解するということではないと、私は思っています。

 むしろ私たちが目を向けるべきことは、「正統教義」の成立と普遍化というプロセスの中で、何十万人もの人々が殺されたという事実です。

 アリウス派もアタナシウス派も、単性論者も両性論者も、「絶対的に正しい信仰」を確立し、普遍化するためには、自分と違う理解の人たちを殺しても構わないと思っていました。

 なぜ、そんなことになるんでしょうか?これは、キリスト教の「魔術化」のプロセスと並行しています。

 魔術を使って、神々の力を引き出すことができるのは、正しい呪文を知っている僅かの者たちだけです。

 同じように、洗礼を受けて罪の赦しを受け、キリストの体を食べ、血を飲んで、永遠の命を受けることができるのは、「正統教義」を知る者たちだけだ。クリスチャンたちも、そう思うようになりました。

 神を「知る」ことを求める宗教の中から、知恵の開放性が失われるプロセスと、自分たちだけが神の力を引き出すことができる、自分たちだけが神の恵みと祝福を受け受けられると主張するプロセスは、並行しています。

 イエス様は、敵を愛し、敵のために祈れと命じました。イエス様は弟子たちに、報復することを、敵を殺すことを禁じました。

 ところがキリスト教の魔術化が進み、自分たちだけが神の恵みと祝福と救いに与るのだと信じるようになったクリスチャンたちは、正しい信仰を推し進めるためには、異端者を殺すことも「愛の業」でありえると思うようになります。

 異端者に対する愛の業としての殺戮は、異教徒にも適用されるようになり、西洋の帝国主義と植民地主義の原動力となりました。

 そして現在、シオニズムというイデオロギーが、魔術化したキリスト教の闇を共有しています。

 魔術化したキリスト教とシオニズムの中には、悪魔が潜んでいます。ガザは、この悪魔の存在を明らかにしました。

 残念ながら3月の大斎研修でお話ししたことが現実となり、13日の金曜日、シオニスト国家、偽りのイスラエルが、イランへの攻撃を開始しました。

 アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスは直ちに、イスラエル支持の立場を改めて表明しました。

 私たちは西洋シオニスト同盟によって、今まさに、第3次世界大戦に引きずり込まれようとしています。

 戦後80年のこの年、私たちは「戦後秩序」と呼ばれた、アメリカ中心の西洋帝国主義の崩壊を目の当たりにしています。

 魔術化したキリスト教とシオニズムの中にいる悪魔の手から逃れるためには、歴史を振り返り、ナザレのイエスに帰らなくてはなりません。

 キリスト教の歴史を学べば学ぶほど、教会の伝統や教義が、ナザレのイエスからどれほど遠く離れたかを知らされることになり、驚かされるはずです。しかしそれこそが癒しの始まり、再生の始まりです。

 主の憐れみによって、この終末の時を、核戦争の危機を、生き延びることができるよう、共に祈ってください。

 そしてこの危機が、魔術化したキリスト教に別れを告げ、ナザレのイエスに帰り、Jesus Movementとして再生する時となりますように。