聖霊降臨後第5主日 説教

聖霊降臨後第5主日(C年)2025年7月13日

申命記 30:9-14; コロサイ1:1-14; ルカ10:25-37

今日の福音書朗読は、知る人ぞ知る、「良きサマリヤ人」の例え話です。

 イエス様に倣い、神の国の民として生きるために最も大切なことは何か。それが、この一つの物語を通して完全に表わされていると言っても過言ではないと思います。

 聖書の中には「律法」という言葉が、度々登場します。「法律」という漢字を前後ひっくり返して、「律法」と書きます。

 律法というのは、旧約聖書の最初の5つの書物のことで、それは神の掟であると見なされていました。

 そして、イエス様の時代のユダヤ人たちは、律法に従って生きる清い人を神様は祝福し、律法を守らない汚れた連中を神様は呪われるんだと考えていました。

 ですから、律法の専門家にとって、自分の「隣人」になり得るのは、律法に従って清い生活をする同胞のユダヤ人だけでした。

 ところがイエス様の周りには、神の掟に従って生きることを諦めた、「汚れた人たち」がわんさかいました。それは律法の専門家から見れば、絶対に隣人になりえない人々でした。

 律法の専門家は、ナザレのイエスという男は、神の掟をまともに理解していないし、誰が隣人となるべきかも知らないと思っています。そのことを暴露するために、「私の隣人とは誰ですか」とイエス様に質問しています。

 するとイエス様は、この質問に答える代わりに、一つの例え話をします。

 一人のユダヤ人が、エルサレムからエリコへ下って行く途中で追い剝ぎに襲われ、半殺しの状態で道端に放り出されています。

 そこに同胞であり、「隣人」となりえるはずの祭司とレビ人が通りかかります。

 祭司とレビ人は、律法に従って、清い生活をすることに命を賭けている人たちです。

 ところが彼らは、倒れている同胞を助けるそぶりも見せずに、そそくさと道の反対側を通って去って行きます。

 彼らは、もし追い剥ぎに襲われて倒れている人がすでに死んでいたら、死体に触れることで自分たちが汚れてしまうということを恐れました。

 要は、祭司もレビ人も、「律法」に従うために、死にかけている同胞を放置しておく道を選びました。そして、その判断は、律法に照らせば正しい、ということになります。

 祭司とレビ人は、ルールのために人を捨てます。そしてその行動は、ルールによって正当化されます。

 しかしイエス様は、ルールは人のためにあるのであって、人がルールのために存在しているのではないことを知っていました。

 ですから彼は、「律法に従って清い生活をする」ことに、まったく関心がありませんでした。

 半殺しの状態で倒れていたユダヤ人を助けたのは、サマリア人です。

 ユダヤ人にとってのサマリア人は、異邦人よりも汚れた憎むべき敵であり、決して「隣人」となりえない存在でした。

 750年もの長きに渡って、憎しみと敵意が、ユダヤ人とサマリア人との間を分かっていました。

 ところがイエス様の語った物語の中では、憐れみの心に動かされたサマリア人が、死にかけていたユダヤ人の隣人となり、彼の命を救います。

 そしてイエス様は例え話を終えた後、律法の専門家にこう問いかけます。「誰が追い剝ぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と。

 律法の専門家が、「その人に憐れみをかけた人です」と答えると、イエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい」と命じます。

 イエス様は最後まで、「わたしの隣人は誰か?」という律法の専門家の質問には答えていません。

 憐みの心に動かされたサマリア人が、瀕死のユダヤ人の隣人になったように、「あなたも同じようにしなさい」。

 イエス様はそう言って、誰が自分の「隣人」になり得るかを、あらかじめ決めておくべきだという考えを拒否しているのです。

 誰が隣人になり得るかを事前に決めておくということは、とてつもなく危険なことです。隣人になり得ないと見なされた人は、「敵」となります。

 そしてあっという間に、敵は神に呪われた存在となり、敵を苦しませること、暴力を振るうこと、そして命を奪うことが、神の名によって正当化されるようになります。

 それは今まさに、パレスチナの地で起こっていることです。

 私も十代の頃は、自分の隣人になり得る人は、あらかじめ決まっていると思っていました。

 受験料が払えず、高校受験すらできなかった私の母は、シングル・マザーとなって貧困の連鎖の中に落ち、その親のもとに生まれた私も、母と同じコースを辿りました。

 それで、若かりし頃の私は、私立の学校に通っている生徒は、絶対に自分の隣人になりえないと思っていました。

 特に、私立の女子校に通っている女子と自分は、まったく別の世界に生きていて、何の接点もないと思っていました。

 ところがどういうわけか、数年前から、ご近所の私立学校のチャプレンを兼任することになり、先月は高校3年生のキャンプに同行することになりました。

 先週は小学校3年生と6年生のキャンプに一緒に行って、生徒たちと鬼ごっこをする羽目になりました。

 全速力で逃げる6年生にはもはや追いつけず、絶賛成長中の生徒たちの背中を見ながら、急激に衰えている自分の現実を痛感いたしました。

 そして、チャプレンとして自分がそこにいるということに、とても不思議な気持ちになりました。

 それと同時に生徒や先生たちに、愛する隣人として出会えたことを、神様に感謝しました。

 戦後80年を迎えた私たちは、残念ながら、再び戦時中を生きることになりました。

 日本でも、誰が私たちの隣人になり得るか、誰が私たちの敵かを、国が決めようとする時が、そう遠くないうちにやってくるかもしれません。

 しかし、その時こそ、今日の福音書朗読の中でイエス様が語っている言葉が、希望の光として私たちの行く道を照らします。

 「隣人」をあらかじめ定めようとする人々を警戒しましょう。

 私たちは、前もって「隣人」を定義する必要も、特定する必要もありません。

隣人となる人との出会いは、神様が私たちに与えてくださる贈り物なのですから。