聖霊降臨後第6主日

2025年7月20日(日)聖霊降臨後第6主日

創世記 18:1-10a; コロサイ1:15-28; ルカ10:38-42 

 「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。42 しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」

 きっと、初めてこの言葉を聞いた多くの人は、カチンと来たり、「それはちょっとあんまりじゃないですか」と感じられると思います。

 私も含め、多くの説教者や聖書学者たちは、この言葉をどうにか和らげて、マルタを慰めようと、色々な策を巡らせてきました。

 しかし私は最近、イエス様が語ったことになっているこの言葉そのものが、どうも怪しいんではないか思うようになりました。

 今日の福音書朗読の物語に登場するマルタとマリアという姉妹は、教会の中ではかなりの有名人で、日曜学校のお話の中にも、度々登場します。

 ところが、実はこの二人の姉妹は、ルカ福音書とヨハネ福音書にしか出て来ません。

 ルカ福音書では、今朝の福音書朗読で読まれた6章38節から42節にのみ登場します。

 ところがヨハネ福音書では、マルタとマリアは、11章1節から12章11節まで続く大きな物語の中に、しかも神学的にも極めて重要なお話しの中に登場します。

 それは、イエス様が病気で死んでしまったラザロを生き返らせる物語で、イエス・キリストの復活をあらかじめ示す役割を担っています。

 ルカ福音書では全く触れられていないことですが、このラザロは、マルタとマリアの兄弟です。

 そしてヨハネ福音書の著者は、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(ヨハネ11:5)という注釈をわざわざ入れて、マルタ、マリア、そしてラザロが、イエス様にとって特別な存在だったということを示そうとしています。

 生き返ったラザロは、再びイエス様がベタニアを訪れた時、イエス様と一緒に食卓につきます。

 その時も、マルタは食事を用意し、給仕をしています。マリアはイエス様の足元に座り、その足に高価な香油を塗り、髪の毛で拭います。

 そこには、マルタに対する批判の言葉も、マリアに対する賞賛の言葉もありません。

 さて、イエス様が宣べ伝えた神の国は、彼が女性たちから学んだ二つの cornerstones、角の親石の上に、この世に存在しない、まったく新しい共同体を立て上げようとするプロジェクトでした。

 神の国の二つの角の親石は、食事を整えて給仕をすることと、足を洗うことでした。それはヨハネ福音書の中で、マルタとマリアがしている働きそのものです。

 イエス様が語った神の国は、コミュニティーのすべてのメンバーが食事を準備し、給仕をし、そして互いの足を洗い合う共同体です。

 そのような共同体の生き方の中にこそ、本当の平和が生まれるのだということを、イエス様は女性たちから、マルタとマリアから学びました。

 イエス様がマルタとマリアの働きの上に打ち立てようとした神の国という共同体は、ローマ帝国の支配に対するオルタナティブです。

 ローマは、皇帝崇拝というカルトの上に据えられ、ローマ軍の暴力と脅迫によって維持される支配体制でした。

偉大な国を取り戻すんだと、うそぶく大統領が崇拝され、強大な軍事力で世界中の国々を恫喝する、どっかの国に振り回される世界の現状と、非常によく似ています。

 それに対して神の国は、すべての人が食事の準備をし、給仕をし、足を洗う(人がもっともしたくないことをする)ことによって支えられ、成長する共同体です。

 ですから、給仕に徹するマルタよりも、イエス様の足元で話を聞くマリアをイエス様が褒める、なんてことは、まったくありそうにない話です。

 もちろん、私たちは毎週日曜日に、イエス様の言葉を聞くために、共に集まります。

 けれども、「あなた方の中で、もっとも偉くなりたい者は、皆の奴隷になりなさい」と言われたイエス様が、「食卓で給仕をすることなんかやめて、私の話をもっと真面目に聞きなさい」と言うことなどなかったでしょう。

 「私があなた方の足を洗ったように、あなた方も互いに足を洗い合いなさい」と言ったイエス様が、「足なんか洗うのやめて、お祈りと聖書の勉強だけしてればいいから」とも言わないでしょう。

 マルタとマリアが登場するルカ福音書の物語と、ヨハネ福音書の物語を突き合わせてみると、マルタとマリアを比較して、「どちらかが優れているか」と質問することが、そもそも間違っているということになるのではないでしょうか。

 なぜなら、イエス様は、マルタとマリアの働きの上に、神の国は建てられるんだと信じておられたからです。

 ガザで100万人を超える人々が飢餓状態に置かれている現実を前にしながら、そこに食料を届け、医薬品を届けようとしている人々がいます。

 ガザの人々によって、食料と医薬品のどっちが必要かと問う必要などありません。

 ひとり親家庭の貧困問題に心を痛めながら、食事が大事なんだと思う人も、子どもたちの教育が大事なんだと思う人もいるでしょう。

 食べられるようにすることも、子どもたちの教育をサポートすることも、共に尊い働きであり、どちらがより重要なのかと問う必要などありません。

 空腹の人を空腹のままにしておきたくない。苦しんでいる人、傷ついた人を見て、見ないふりはしたくない。

 そう思いながら、「自分にできることは何だろう」と問いかける。

 その結果として出てくる働きを、それがどんな小さな働きであったとしても、神様はそれを見て、「あなたは良い方を選んだ」、そう言ってくださるのではないでしょうか。