聖霊降臨後第7主日 説教

2025年7月27日(日)聖霊降臨後第7主日

創世記 18:20-32; コロサイ2:6-15; ルカ11:1-13

 今朝の福音書朗読は、クリスチャンにとってもっとも馴染みの深いお祈り、私たちが毎週礼拝の中で捧げている「主の祈り」が出てくる箇所です。しかし、私たちが馴染んでいる主の祈りよりも、随分とあっさりしています。

 今日は、ルカ福音書版とマタイ福音書版の2つの「主の祈り」の違いについては触れません。

 その代わりに、同じ主の祈りが、まったくの「別物」として描かれていることに注目したいと思います。

 私たちが普段用いている主の祈りは、マタイ福音書版(6章)に、ルカ版からの「修正」を1ヶ所加えたものです。

 「わたしたちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします」という部分は、マタイ版のギリシア語本文では「私たちの借金を帳消しにしてください。私たちも私たちに負債のある者をゆるしましたから」となっています。

 しかしルカ版では、「私たちの借金」が「私たちの罪」になっています。

 聖公会とカトリック教会が共通に用いている「主の祈り」の日本語訳は、このルカ版の修正を採用して、「借金」という言葉を、「罪」という言葉に置き換えています。

 マタイ福音書は、教会と主流派ユダヤ人との対立の中に「主の祈り」を位置付けています。

 イエス・キリストを退け、教会と敵対するファリサイ派ユダヤ人たちは人からの賞賛を求めて、人に見られるために、会堂や通りで施しの業をし、祈り、断食をして顔をやつれさせる偽善者だ。

 奴らのように、人からの報いを得、人から賞賛される者は、神からの報いを受けることは決してない。

 だから、キリストの弟子であるあなたたちは、偽善者に倣うな。神は隠れたところで見ておられのであり、隠れた善き業にこそ報いてくださるのだ。

 祈る時には、人の見ているところで祈るな。父なる神は、祈る前に、すでに私たちの必要を知っておられるのだから、同じことをくどくどと繰り返して祈る必要などない。

 そして、主の祈りは、ミニマリストの祈りとして弟子たちに与えられます。

 マタイ福音書の文脈で言えば、神は私たちの必要をすべてご存じなのですから、これ以上の祈りは不要であるばかりか、神に対する冒涜だ、ということになります。

 さらに、主の祈りが置かれているマタイ福音書の文脈の中で、祈りは中心的なテーマですらありません。

 中心にあるのは、マタイ福音書の背後にある共同体生き方が、敵対する主流派ユダヤ人と同じであってはならないという点です。

 しかし、ルカ福音書の著者は、とにかく「しつこく祈れ!」とイエス様に言わせます。

 この話の中で、弟子たちは、「パンを貸してくれ」と頼んでいる人と重ねられています。

それは、「パンを貸してくれ」と頼まれている友人としてではなくて、パンをせがんでいる人としてこの話を聞くように、物語が組み立ているということです。

パレスチナ社会では、イエス様の時代も、そして今も、旅人は祝福であり、旅人をもてなすことは栄誉だと見なされています。

 旅人を退けることや、もてなしをしないことは、恥ずべき行為でした。

 イエス様の時代には、旅館があちこちにあるわけではなく、旅には大きな危険が伴いました。旅人をもてなすということは、食事と、寝る場所と、夜の安全を提供することでした。

 しかも、旅人のためには、最高のご馳走が振舞われました。たとえ借金をしてでも、です。

 旅人のために食事を振る舞うことができないなんてことは、絶対にあってはならないことだったんです。

 真夜中に友人の家の戸を叩いて、「パンを3つ貸してくれ」とせがんでいる人は、自分と自分の家族のためにそうしているのではありません。

 彼は旅の途上で、自分を頼ってきた友人のために、恥を忍んで、パンを貸してくれと懇願しているのです。

 そしてルカ福音書のイエス様は言います。パンを貸してくれとせがまれている友人は、特別に寛大でも、人徳があるわけではないけれども、真夜中に叩き起こされて、執拗に、しつこ頼まれたら、早くうっとうしい奴に居なくなって欲しいと思って、求めているものを与えるだろう、と。

 こうしてルカ福音書のイエス様は、執拗に、めげずに、同じことを祈り続けるようにと言います。

 ルカ福音書とマタイ福音書とが、同じ「主の祈り」を引き合いに出しながら、全く正反対の主張を展開していることは明らかです。

 しかも、二つの福音書の著者は、イエス様の口を借りて、正反対のことを言わせているのです。

 これは、「絶対的正しさ」や「絶対的確実性」を求める人間にとって、「不都合な現実」です。

 正反対のことを語っているテキストを調停しようとすれば、私たちはテキストに対して暴力を加えて、自分たちの願望を投影することになります。

 そんな無駄な抵抗をするよりも、異なる時代に、異なる場所で、異なる現実に直面する教会が、進むべき方向を柔軟に調整できる自由が与えられていることを喜びたいと思います。自由の無いところに、聖霊は働かないんですから。

 さて、今日、11時からの礼拝ではRくんの洗礼式が予定されています。聖マーガレット教会に、新しい仲間を迎えることができることは、本当に大きな喜びです。

 洗礼式の中で、洗礼志願者はいくつかの誓約を唱えますが、その第1は、神に造られた世界を堕落させ破壊するすべての悪の力と戦うという約束です。

 世界を堕落させ破壊する悪の力と戦うためには、「パンを3つ貸してくれ」とせがむ人の、あの「執拗さ」が、絶対不可欠です。

 執拗に、めげずに、同じことを祈り続けるスキルを身につける必要があります。

 それこそ、私たちがルカ福音書版の主の祈りの物語から学ぶべきことです。

 パンをせがんでいる人は、自分のために、自分の身内のために、パンを貸してくれと言い続けているのではありません。

彼は、危険に満ちた旅の途上で、束の間の休息を求めて身を寄せた友人のために、執拗にパンを求めているのです。

世界を堕落させ破壊する悪の力はしぶとく、悪の現実は簡単には変わりません。

ですから、悪の力との戦いは長期戦です。執拗に、めげずに、同じことを祈り続けること無しに、長期戦を戦うことはできません。

 悪との戦いという長期戦を戦うために必要な原動力。それはきっと、夢です。夢は、未来の喜びです。

 旅人を迎えた人は、旅に疲れた友人を喜ばせたい一心で、執拗にパンを求めます。

 この国にも、夏休み中に給食がなくなり、食事を十分に摂れない生徒たちがいます。

 そのような子どもたちが、毎日、安心して、十分に食べられるようになれたら、それは大きな喜びです。

 親の暴力に怯える子どもたちを、暴力から解放し、笑顔にすることができたら、それは大きな喜びです。

 世界中からやってくる人々と共に、この国を平和で豊かな社会にしようとする歩みは、日本人ファーストというエゴイズムによって、差別的で排他的社会を生み出す道よりも、はるかに大きな喜びに満ちています。

 主が私たちを、未来の喜びを胸に、執拗に、めげずに祈り、悪の力と戦う者とならせてくださいますように。