










2025年8月3日(日)聖霊降臨後第8主日
コヘレト1:2,12-14;2:18-23; コロサイ3:1-11; ルカ12:13-21
あっという間に8月の第1主日を迎えました。8月は日本が戦争に敗れ、アメリカによる占領が始まった月です。
この国で生きる者にとっては、戦争について思い返し、語ることなしに8月を過ごすことはできないと言っても、過言ではないでしょう
そして、この日の福音書朗読は、あらゆる戦争の根っこにある、貪欲と富の蓄積との問題に触れる箇所です。
イエス様の例え話は「ある金持ちの畑が豊作だった」と始まります。
大きな畑を所有してビジネスを展開する人ですから、現代風に言えば、超富裕層ではないけれども、大変な大金持ちではあったというところでしょう。
その大金持ちの畑が豊作に恵まれました。しかもそれは、倉の中に納めきれないほどの大豊作でした。
その時に彼が考えたことは、納め切れない収穫物を、どこに、どうやって溜め込むかということでした。
まるで、過去最高益を叩き出しながらも内部留保を積み上げるばかりで、労働者の給料を上げない企業の幹部のようです。
この話は例え話ですが、例え話の背景にある当時のパレスチナの社会では、畑に種を蒔くにしろ、収穫をするにしろ、そこには多くの日雇い労働者が関わります。
その労働者たちも含め、「普通の人々」は、毎日食事にありつくことはできませんでした。当時の社会では、人口の9割が貧困層で、毎日、一食は食べられるという人は、10人に一人くらいのものでした。
ところが、どうしたら数年先まで贅沢な生活ができるかと思い巡らせるこの金持ちに、数日後には餓死するであろう人々に対する憐れみの心はありません。
イエス様は、食べるにも困る人たちがいる世界の中心に、巨悪を見ていました。
今日の福音書朗読に出てくる「金持ち」は、食うにも困る人たちを放置するような世界を生み出す人間を、その心のあり方、モノの考え方を体現しています。
ここで皆さんに問題です。「近代資本主義の土台を据えたのは誰でしょう」?それは、ジョン・カルヴァンという人です。
近代資本主義は、投資した金よりも多くの金を回収するシステムで、その中心には利子を付けて金を貸すという行為があります。
この、利子をとって金を貸すという行為は、使徒教父時代から中世にいたるまで、教会の歴史の中で一貫して、「赦されざる罪」とされてきました。
クリスチャンが利子をつけて金を貸すことは厳しく禁じられていたんですが、ユダヤ人はこの制限から除外されていました。
シェイクスピアの『ヴェニスの商人』には、西洋世界の中で利子をとって金を貸すという行為が、殺人と同じような罪だとみなされていたことが表れています。
ところが1545年に書かれたある手紙の中で、カルヴァンはこのような主張を展開しました。
聖書のいくつかの箇所が(実際にはすべての箇所ですが)利子をつけて金を貸すことを禁じているという理由で、その良し悪しを判断するべきではない。むしろ、「公平の原則」に従って判断をするべきで、聖書の「本当の懸念」は、高い利子をとって貧しい者を搾取することだ。コミュニティーが適正とみなす利子をつけて金を貸すことに問題はない。
カルヴァンはこう言って、教会の歴史上初めて、利子と共に金を貸すことに「神学的正統性」を与えました。
教会が一貫して「罪」とみなしてきた行為を、カルヴァンが「倫理的に問題のない行為」にしようとしたのは、彼がスイスの街、ジュネーブの都市計画責任者だったからです。
彼はスイスの銀行業に神学的お墨付きを与えて金を集め、その金がジュネーブに逃れてきた手工業者や商売人への投資を可能にしました。
こうしてカルヴァンは、ジュネーブにマーケットと産業を産み出すことに成功したのです。
今では資本主義経済のエンジンとして当たり前になった「利子をつけて金を貸す」行為は、16世紀の段階では「赦されざる罪」でした。
そのため、手紙の主がカルヴァンであったことは、彼の死後まで隠され続けました。
彼は裏口からマモン(金の悪魔)を導き入れ、資本家が飽くなき利益を求めて金を貸す経済モデルに道を開きました(Max Weberがこれを『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で理論化したと言われる)。
これは後に、西洋の植民地主義と帝国主義へと繋がっていくことになります。
個人に無限の利益追求を許す経済モデルは、まず人々の生活を破壊し、コミュニティーの崩壊に至ります。
それはレーガン・サッチャー以降の、新自由主義経済が何をもたらしたかを見れば明らかです。
1970年の時点で、アメリカの一般労働者と会社の最高経営責任者の給与格差は30対1でした。それが、2018年には300対1になり、5年後の2023年には、344対1にまで拡大しています。
しかも、この数字はあくまでも平均値であって、格差がずっと大きい企業が山ほどあります。
Starbucks (スターバックス)のCEOのブライアン・ニッカルの年間報酬は、平均的な従業員報酬の約6,666倍です。
新自由主義の下では、会社は株主のものだということになり、役員報酬と株主の利益だけが追求されて、労働者は使い捨てにされます。
つい最近、ホンダとの合併話が持ち上がって話題になったある自動車会社は、1990年代以降、業績の低迷に喘いできました。 ところが、この会社の役員報酬だけは急激な上昇を続け、幹部と一般社員との年収格差は102倍以上にまで広がりました。
他方、助けを求められたホンダ側の幹部と一般社員との年収格差は、1970年代からほとんど変わっていません。大体15倍前後で推移しています。
新自由主義の波に乗り、1999年以降に5万人以上の人員削減を行い、国内外で10以上の工場を閉鎖した会社で、役員報酬だけが上がり続け、幹部と一般社員との年収格差が102倍以上となった。
新自由主義に抗ったホンダは、国内での業績不振から立ち直って比較的安定した経営を続け、幹部と一般社員との年収格差は1970年代と大きく変わっていない。
この一例にも、新自由主義というのは、持てる者たちが更に富を蓄積することを可能とするために考案された理論だということが、よく表れています。
イエス様が見抜いていた通り、富は不正が積み重なるところでしか蓄積されません。無限に個人の富が蓄積される所では、必ず不正も肥大化します。
人を無限の富の蓄積へと突き動かすのは貪欲であり、世界を二つの世界大戦へと突き落としたのも貪欲です。
そして日本も、貪欲に駆られて戦争の道を突き進み、西洋のような帝国となることを望みました。
残念ながら、戦後80年を迎えた今再び、貪欲に突き動かされた者たちが、世界を戦争の連鎖へと駆り立てています。
貪欲な者が支配するところに平和は訪れず、自分のために富を蓄積しようとする者が平和を作ることもありません。
では私たちは、ナザレのイエスに倣って生きる者として、どこから始めればいいのでしょうか?
はじめの一歩は、自分のもとに集められた富は、不正な富だと認めることです。イエス様に言わせれば、不正でない富の蓄積はありません。
次の一歩は、「いかに手放すか」を本気で考えることです。もちろん、自分の生活が立ち行かなくなるようなことをする必要はありません。
しかし、私たちのもとに蓄積した不正な富は、神の国を前進させるために、神様に「返すべきもの」です。
神様はすべての人が、心ゆくまで食べて飲んで満ち足りる世界を望んでいます。
しかし、富を蓄積することにしか関心のない人間は、世界を命の脅かされる場にしてしまいます。
共に生き、平和を実現するために、いつ、何を、どう手放すべきか、主が私たちに教えてくださいますように。
