聖霊降臨後第9主日 説教

聖霊降臨後第9主日2025年8月10日創世記 15:1-6; ヘブライ11:1-3,8-16; ルカ12:32-40

2025年8月は、私の中でこれからずっと、この世を去る時まで、Peter Barakan月として記憶されることになりました。

 それは、8月8日の金曜日に、Peter Barakanさんをお迎えしてのチャリティ・イヴェント、「ガザを見つめ、平和を願う夕べ」が、この聖マーガレット教会で行われたからです。

 私は中学3年の頃から「洋楽」を聴くようになり、Peter Barakanという人の名前と、彼の声を、ラジオで耳にするようになりました。

 彼が「CBSドキュメント」という番組の司会を務めるようになって初めて、顔と名前が一致するようになりました。

 決してブレない反戦・平和主義の姿勢に深い感銘を受けて、私はいつしか、Peter Barakanという人の大ファンになりました。

 けれども、まさか30年の時を経て、敬愛するPeter Barakanさんと一緒に、平和を願うチャリティ・イヴェントをする日が来るなどとは、夢にも思っていませんでした。

 今回の企画は、私の思いつきというか、ワガママを、色んな方が聞いてくださったおかげで実現しました。

 今年の5月26日の月曜日に、アップリンク吉祥寺で、 ある映画の上映後に、Peter Barakanさんのトーク・イヴェントがありました。

 私は、教会でガザ支援のチャリティー・イヴェントを企画して、そこにPeterさんを呼びたいという下心をもって、映画館に行きました。

 アップリンクでのトーク・イヴェントの後、映画のパンフレットにサインをしてもらいながら、ガザ支援のチャリティ・イヴェントに来ていただきたいので、ぜひ連絡をくださいと言って、名刺を置いてきました。

 その翌日に、Peterさんがメイルをくださったので、聖マーガレット教会で戦争、平和、音楽、そしてパレスチナ問題に絡めたチャリティ・イヴェントを企画したら来ていただけますかと打診をしました。

 すると「ガザのためなら、スケジュールさえ合えばもちろんチャリティ・イヴェントに喜んで参加します」との返信をいただきました。

 非常に多忙なPeterさんですが、8月8日なら大丈夫そうだということで、6月の教会委員会で話し会い、ぜひやろうという運びになりました。

 そうして迎えた8月8日金曜日の夕べは、200人を超える方々が集まり、Peterさんの話に耳を傾け、Peterさんが選んでくれた音楽を聴き、パレスティナの解放と世界の平和を願う、豊かな時となりました。

 イヴェントの後に、1階のホールを開放して、Peterさんにも残っていただいて、お茶を飲みながら話をできる場を設けました。

 その時に沢山の方々から、「こういうイヴェントを企画してくださってありがとうございました」、「勇気づけられました」とか、「思いのある人たちがたくさんいることがわかって、希望が湧いてきました」と声をかけられました。

 集まった人たちの半分以上は、これまでに聖マーガレット教会に足を踏み入れたことのない方たちだったと思います。

 多くの人たちを巻き込んで、平和を願う集いを実現できたことを、本当に嬉しく思っていますし、その実現を可能にしてくださった皆さんに、心から感謝いたします。

 イヴェントの始まる前、牧師室でPeterさんと話をしている時に、イギリス人も、アメリカ人も、日本人も、自分たちの負の歴史、加害者としての歴史をほとんど教えられないし、知らないということが話題になりました。

 どの国も、都合の悪い歴史に向き合おうとしない。それが結果的に、同じ過ち過ちを繰り返すどころか、もっと大きな悪となって帰ってくる。それが今の現実だと、言えなくもありません。

 都合の悪い歴史から目を逸らす。それは、教会にも言えることだと、私は思っています。

 正直なところ、私は今日の特祷にも、教会は負の歴史に、ちゃんと向き合おうとしていないんだなと感じてしまいます。

 「国々の政治に責任を持つ人々の心を治め、罪の力によって分かれ争う世界が、正義といつくしみに満ちた神の支配にこそ従うことができますように」という言葉には、当事者意識が感じられません。

 パレスティナ問題を生み出した責任の半分は教会にあります。

 なぜなら、教会は歴史を無視した聖書テキストの解釈によって、シオニズムというイデオロギーを生み出し、正義も公正もない大英帝国の政治家たちと結託し、3枚舌外交を支えることで、迷信に過ぎない「預言」を成就しようとしたからです。

 しかし教会の本当の使命は、ナザレのイエスが示した神の姿を、共同体の生き方を通して示すことのはずです。

 今日の福音書の37節には、僕たちを食事の席につかせ、給仕する主人が現れます。

 イエス様の時代にも、その後の時代にも、奴隷たちを食事の席につかせて、自ら給仕する主人なんていうのは存在しません。

 37節の主人の姿には、すべての者を祝宴の席に招く神がどんな方なのかという、イエス様の理解が表されています。

 しかし、教会はその歴史の大部分で、貧しい者や抑圧に苦しむ者を、優先的に祝宴の席に招いてくださる神の姿を現すことに失敗してきました。

 私は、金曜日にPeterさんが語ってくれた言葉が、戦争をしないための知恵、平和を作る者として生きるための知恵そのものだと思います。

 Peterさんのお父さんはユダヤ系のポーランド人で、父方の祖父とその家族は皆、ホロコーストの犠牲者です。

でも、そのPeterさんが、パレスティナの人たちを応援している。「それはなぜですか」とお聞きしました。Peterさんの答えは単純明快でした。 「それは正義だからです。抑圧されている人を、しかも長年にわたって、当然のこととして応援するっていうか、支持するっていうか、そうじゃなければ、じゃあ人間って言えるかっていうことです。」「今のイスラエルはまさにアパルトヘイトですよね。(南アフリカと)何も変わらない。」

 それがピータさんの答えでした。では、彼を「ユダヤ人ファースト」や「イスラエル・ファースト」から守っているものは何でしょうか。

 Peterさんはこうも言われました。「ボクは一切、民族意識もないし、普通にいう愛国心もないんですよ。」「国家の意識がないんですよ、ボク。」「むしろ、自分は何人かって言ったら、ロンドン人。自分はロンドンで生まれ育ったから。極めてローカルな意識があります。むしろ今は東京人かもしれない。」

 実は、私たちが自分の置かれたところで生きていくためには、国という意識も、愛国心も必要ないんです。

 それを必要とするのは、戦争をしたい人、国のために私たちを戦わせたい人たちなんです。

 イエス様が語られた神の国の民として生きる。それは国のために死なないし、国のために人を殺すこともしない生き方です。

 Peterさんは、その生き方を、自分の言葉で、教会という境界線を超えて、さらに多くの方たちに示してくれました。 素晴らしい出会いを与え、共に平和を願い求めて集まる機会を備えてくださった神様に、そして、それを実現させてくださった聖マーガレット教会の皆さんに、心から感謝いたします。

 昨日送った感謝のメイルに対するPeterさんの返信の言葉をもって、今日のお話を終わります。

「普段とは全く違うイヴェントで、ぼくはとても手応えがありましたし、エネルギーをいただきました。またぜひやりましょう。」