聖霊降臨後第10主日

2025年8月17日聖霊降臨後第10主日

エレミヤ23:23-29; ヘブライ11:29-12:2; ルカ12:49-56

 先週の水曜日、お昼ご飯を食べに、夫婦で吉祥寺のクレヨンハウスに行ってきました。

 クレヨンハウスは、作家の落合恵子さんが環境、平和、人権を大切にするジェンダーセンシティブな社会の実現を目指して、1976年に立ち上げた文化創生プロジェクトです。

 発足当初から、子どものための優れた本を紹介し販売するフロア、有機野菜の販売フロア、そして有機野菜を使ったレストランからなる青山の店舗が、事業の中心でした。

 しかしクレヨンハウスの入っていた表参道のビルが老朽化したため、2022年の12月に、吉祥寺に移転してきました。

 今回初めて、クレヨンハウスのランチ・ビュッフェを食べてみようということで、足を運んでみました。

 そうしましたら、戦後80年特集として、「21世紀を新しい戦前にしないために。あなたにできること、わたしにできること」という企画が行われていました。

 私たちが座っていた席と通路を隔てる低い仕切りのところには、「無関心は無責任のはじまり。傍観することは、加担することと同じ。反対しないことは、賛成することと同じ」という言葉が掲げられていました。

 これはレイフ・クリスチャンソンという人の言葉で、『わたしのせいじゃない―せきにんについて』という絵本からの引用です。

 食事の後、2階の絵本と玩具のフロアに上がってみると、そこにはクレヨンハウスからの呼びかけに応えた50名以上もの作家、詩人、写真家の言葉と、それぞれの「平和を考え続けるため、未来に向けて残したいおすすめの一冊」が展示されていました。

 その中に、『あらしのよるに』という絵本の作者、きむらゆういちさんの言葉がありました。

子どもがケンカしている。「なぐったな。じゃあオレは棒でぶつよ。」「それならこっちはナイフだ。」「こっちはピストルだ。」「ミサイルだ。」そんな時、「こらいいかげんにしろ。どんどん武器をエスカレートしていったら、最後にはこの家(地球)がこわれるだろ!」そう言ってくれる大人がいて欲しい。競争で軍備を増やしてその先にあるものは破滅しかない。

 敵だと思わず暗闇で話をしたら、例えA国人でもB国人でも仲良くなれるかもしれない『あらしのよるに』はそんな絵本です。

 「こらいいかげんにしろ。どんどん武器をエスカレートしていったら、最後にはこの家(地球)がこわれるだろ!」

 イエス様は間違いなく、そう言える人でした。そして、そう言える人たちを、300年にわたって生み出し続けました。

 最初の3世紀、イエス様に倣う者たちの集まりである教会は、どんなに迫害に晒されても、武器を取って敵と戦うことはありませんでした。

 なぜ迫害者に報復しなかったのか。なぜ、自衛のために武器を取らなかったのか。その答えは単純です。イエス様が、「絶対ダメだ!」と言ったからです。

 福音書をどれほど歪曲して読もうと、そこから殺人や戦争を正当化する理論を捻り出すことなどできません

 早くも1世紀の半ば以降、新約聖書に収められる書物が書き始められた時代には、すでに、イエス様の教えにも、生き方にも相入れないような主張が、教会の中から沢山出てきました。

 それでも、300年の間、「敵に報復してはならない」というイエス様の命令を、教会が捨てることはできませんでした。

 それほどまでに、「敵を愛せ」、「敵のために祈れ」と言われたイエス様の言葉は強烈でした。

 ですから、誰もが、教会がイエス様の平和主義を捨てることなどできないと思っていました。

 「私が来たのは、地上に火を投じるためである」、「私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」というイエス様の言葉は、武器を取ることを命じているのでも、戦争の準備を命じているのでもありません。

 彼は、自分の言葉を聞いて、神の国の民として生きようとする者たちと、ユダヤ人社会の常識に従って生きる者たちとの間に必ず起こる、避けることのできない対立のことを言っているのです。

 報復は美徳だと思っている者たちと、報復は憎しみの連鎖を生むだけだと思っている者たちとの間には、必然的に対立が起こります。

 国のためになら人を殺してもいい言う人間と、人を殺しても良い理由など何もないと言う人間との間にも対立が生まれます。

 すべての人が同じように神に愛されていると思う人と、特定の民族だけが神に愛されていると思う人たちとの間に、友好的な関係が生まれることもありません。

 人殺しをしながら、あるいは人を殺すことを命じながら、イエス様が語られた神の国の民として生きることはできないんです。何も難しい話ではありません。

 世界中で戦争を続けるどっかの国の大統領や、その支持者たちのご機嫌を取りながら、ナザレのイエスに倣って生きることなんかできないってことです。

 しかしキリスト教の中には、白人至上主義でも、植民地主義でも、どんな悪事でも正当化できる伝統があることを、私たちは知っている必要があります。

 ローマ帝国と結びついた教会は、イエス様の教えに倣って暴力を放棄する道を放棄して、彼の教えを曲解し、無視し続けてきました。

 ミラノのアンブロシウスは、戦争で人を殺した者は、帰って来て悔い改めればいいと言います。

 カエサリアのエウセビウスは、コンスタンティヌスの戦争は神が命じた戦いであり、ローマ帝国の勝利は神がローマ帝国を支持している証拠だと言います。

 ヒュッポのアウグスティヌスは、秩序の維持と立て直しを目指して敵を殺すことは、愛の業になりえると主張します。

 こうして、ローマ帝国とイエス様が語った神の国とは意図的に混同され、コンスタンティヌスの勝利はキリストの勝利だという話になりました。

 彼らは皆、旧約聖書の中で、神が戦いを命じる場面を引き合いに出しながら、ナザレのイエスの教えを骨抜きにします。

 しかもこの手法は、今でも度々、リサイクルされています。

 こうして、「キリスト教」や、教会の伝統というレンズを通して見ると、ナザレのイエスの姿がほとんど見えないという所まで、私たちは来てしまいました。

 拷問、殺人、強制改宗、帝国主義、植民地主義、白人至上主義、民族浄化に核兵器の使用にいたるまで。

 いかなる悪をも、キリスト教の伝統に訴えて正当化することができます。

その成れの果てが、ピーター・バラカンさんが「止めないと」と言った、例の国であり、その大統領であり、その支持者です。

 私たちには、今現在起きている戦争を止める力はありません。

 自称クリスチャンや自称キリスト教国が世界中で引き起こしている紛争・戦争の連鎖は、ヨーロッパの人々が、自分たちの国の歴史、その帝国主義と植民地主義の巨悪に無関心を貫き通してきた結果です。

 ジャイアンのようなアメリカにべったりの日本で暮らす私たちの無責任と無関心も、そこに加担しています。

 私たちは、今現在起きてしまっている戦争について、ほとんど何もできません。私たちにできるのは、未来の戦争を防ぐことです。

 無関心と無責任が可能にした戦争に向き合い、悔いながら、無関心を捨て、知ろうとし、戦争を望む者たちの姿を晒し、声を上げ、その声を大きくしていく。

 それが未来のために私たちにできること、するべきことです。

 ろくでもないキリスト教と教会を放置して、出ていっちゃいけません。

 むしろナザレのイエスに帰って、内側から、血まみれのキリスト教を解体して、Jesus Movementとして再構築するんです。

そうすれば私たちは、「こらいいかげんにしろ。どんどん武器をエスカレートしていったら、最後にはこの家(地球)がこわれるだろ!」、そう言う人たちの共同体とされます。

 そうなれば、ここに集められる人たちは、どの国から来た人であろうと、敵ではなく、仲間になれます。

 それこそが、ナザレのイエスに倣い、未来の戦争を防ぐ道です。

 イエス様に倣って、殺人と戦争を諦めましょう。