聖霊降臨後第12主日 説教

8月31日(日)聖霊降臨後第12主日

シラ書10:12-18; ヘブライ13:1-8,15-16; ルカ14:1,7-14

今日の福音書朗読で読まれた7節から14節は、15節から24節に出てくる「神の国の祝宴」の物語の、ルカ福音書の著者による解釈です。

 物語の本文に先立って解釈が提示されていて、しかもその解釈の部分も物語として語られています。

7節から10節の内容は、第一朗読で読まれたシラ書にも通ずる知恵の伝統から生まれる「処世術」です。

 しかしルカ福音書の著者は、知恵の伝統に連なる一般的な処世術を、「この世の偉い人と神の国で偉い人」との逆転現象示すために用いています。

 そして12節から14節には、「神の国ではこの世の価値がひっくり返されるんだ」ということをイエス様から学んだ者たちが、どのような生き方をするべきかということが語られています。

 この背景にある「昼食や夕食の会」というのは、単なる「食事会」ではありません。

 イエス様の時代のユダヤ人社会にも、ローマ社会にも、食べて騒いで、盛り上がって楽しむためだけのパーティというのは存在しませんでした。

 パーティーは、社会的地位と経済的特権を維持し、政治的同盟関係を築くための道具でした。

 言ってみれば、現代の政治家の資金集めのパーティーとか、ロビー団体のパーティーに極めて近いもので、宴会を催すホストには、必ず下心がありました。

 パーティーの参加者名簿は、主催者の社会的地位、政治的影響力、そして経済的特権のショウケイスのようなものです。

 そもそもパーティーそのものが、社会的階層というピラミッドのどの位置に自分がいるかを示すためのパフォーマンスでした。

 金持ちの隣人、役人、政治家、商売人、有力な親類縁者をパーティーに招くことは、いわば投資です。

 誰をどこに座らせるかを決めるためには、来賓の社会的地位と栄誉を考慮に入れて、細心の注意が払われました。そこでミスを犯せば、自分自身の地位、栄誉、経済的特権を危険に晒すことになるからです。

 パーティーに招かれた者たちの側も、今度は自分がパーティーを開いてホストを招き、政治的優遇と経済支援を提供し、公の場でホストを褒め称えて、地位向上のために協力するという「借り」を作ることになります。

 なんだか、こうして見ると、イエス様の時代のユダヤ人社会と、現代の日本社会が、とてもよく似ていると思えてきます。

 日本の社会も、メンツ、人目をやたらと気にします。そのせいで、呼びたくもない上司を結婚式に招いてスピーチを「お願い」しなければならなかったり、宴会の場で、グラスに注いだビールの泡が消えても、お偉いさんの挨拶を延々と聞かされたりもします。

 人目を気にするのが行きすぎて、ついにはトイレにまで「消音機能」をつけるようになりました。

 また、誰との付き合いが自分のキャリアにとって有利に働き、どの政治家が自分に利権をもたらすかといった損得勘定や打算に満ち溢れているところも、イエス様の時代のユダヤ人社会によく似ています。

 しかしイエス様は、ユダヤ人社会の常識を、日本社会の常識をぶち壊せと言います。

 12節の、パーティーに呼んではいけない人リストに出てくる「友人」というのは、自分と同じ社会階級に属し、「お返し」のできる人たちのことです。

 「兄弟」、「親類」は血縁で結ばれた「ファミリー」であり、家父長制の世界では、ファミリーの地位と栄誉と影響力を維持することが、最も大きな関心事です。

 「近所の金持ち」は自分よりも裕福だというだけではなく、社会的地位も高い人物を指していて、自分の地位を上げ、さらに富を増し加えるための「テコ」となる人々です。

 しかしエイス様は、この人たちのことをパーティーに呼ばないように、むしろ「貧しい人」、「体の不自由な人」、「足の不自由な人」、「目の見えない人」を招くようにと命じます。

 イエス様が招くようにと命ずる人たちは、社会的地位も、パーティーを開いてお返しをするためのお金も、政治的影響力もない人たちです。

 ルカ福音書の著者はこのリストの中に、羊飼い、病める者、身分の低い者、徴税人、遊女、罪人まで加えます。

 このパーティーに「招くべき人たちのリスト」は、イエス様が宣べ伝えた神の国の姿に直結しています。

 この人たちは皆、律法を土台とするユダヤ人社会のリーダーたちからは、汚れた者、神に呪われた者、滅びに定められた者として蔑まれ、社会からつまはじきにされた人々です。

 しかしイエス様は、神はこの人たちを真っ先に、最優先で、神の国の祝宴の食卓に着かせるのだと言われます。

 このリストに上げられた人たちをパーティーに招くということは、イエス様に倣う者たちの生き方を通して、恵み豊かで憐れみ深い神の姿を、招かれた人たちに、さらに世界に示すということです。

 神の国の祝宴の場にあっては、自分は招待客の中の上から何番目で、下から何番目のランクかなどということは、まったく問題になりません。

 神様は、私と誰かを比べて「お前はよくやってる」とも、「お前はまだまだだ」とも言いません。

 この世の栄誉は、金持ちや権力者や名声のある者に認められるというところから来ます。

 しかし神の国の栄誉は、イエス様が語られた神の姿に結びついています。

 愛と恵みと慈しみの神を模倣すること。それが神の国の栄誉です。

 そうです。まったくもって不完全な私たちが、神様の真似をするんです。しかも、神様はそれを喜んでくださるんです。

 神の国の祝宴に招かれた者たちは、自分の存在が認められるだけではなくて、与えられた命を、豊かに、喜びをもって生きるようにと促されているんです。

 神様の愛と恵みと慈しみを受けて、喜びをもって豊かに生きるようになった者たちは、今度は、見返りを期待せずに、神様の姿を示すパーティーを開いて、人々を招く者とされます。

 もちろん、これは自分一人でできることではありません。でもコミュニティーがあればできます。

 教会の使命は、愛と恵みと慈しみの神を必要とする人たちを呼び集め、この世の価値を転覆させる、新たなコミュニティーであり続けることです。

 そのためには人が必要です。人数が必要なんです。教会員が増えなくてもいいなんて話は、運動員生み出さずに、運動をしようと言っているようなものです。

 イエス様が与えたミッションを生きるコミュニティーとして教会が存在し続けるために、愛と恵みと慈しみの神を必要とする人たちを招きましょう。

 そして、この世に神の国の祝宴を引きずり込むことのできる人たちを生み、育んでいきましょう。

 その中で、私たちは本当の喜びと、幸いを味わいます。なぜなら神の国の祝宴の主催者である神が現れるところに、イエス様が語る「幸い」もあるからです。