








2025年9月7日(日)聖霊降臨後第13主日
申命記30:15-20; フィレモン1-21; ルカ14:25-33
今朝の福音書朗読の中で、ルカ福音書の著者は、イエス様に倣い、神の国の民として生きる時に生じるコストを計算するようにと警告しています。
ルカ福音書の著者は、使徒言行録の著者でもありますが、彼は使徒言行録の中で、教会を経済共同体として描いています。
クリスチャンという生き方と、教会を支えるために経済的負担を担うことは、不可分に結びついています。
ですから、今日の福音書朗読の中でイエス様が弟子たちに要求するコストは、共同体の維持・存続と結びついているわけです。
今日の福音書朗読は、非常に過激なイエス様の言葉に溢れています。
感謝なことに、マーガレット教会には新しい方が比較的沢山来られます。さらに感謝なことに、洗礼を受けたいという希望を持たれる方も少なくありません。
しかし、もし、今日の福音書朗読を「文字通り」に受け取った場合、「洗礼を受けたい」と言う人に向かって、私はこう尋ねなくてはなりません。
1) あなたはちゃんと、自分の家族を憎んでいますか?
2) あなたは全財産を放棄する準備がありますか?
(なんだか統一教会臭い話になってきました。かなり怪しげです)
3) あなたは洗礼を受けたら、直ちに命を捨てますか?(財産目当ての計画的殺人としか思えません。100%カルト確定です!)
イエス様の言葉や福音書の物語は誇張法に満ちています。誇張法を「文字通り」に解釈しようとすると、そこで語られていることが意味を失います。今朝の福音書朗読もそのような箇所です。
もしイエス様の弟子となった人たちが皆、全財産を放棄していたら、イエス様の宣教活動は成り立ちませんでした。
イエス様と十二弟子たちが宣教活動にコミットできたのは、彼らに寝る場所と食事を提供してくれる弟子たち、特に女性の弟子たちの存在があったからです。
神の国の到来を告げ知らせるイエス様のミッションは、財産を持っている弟子たちによって支えられていたんです。
また、今朝の福音書朗読に含まれていた二つの短い譬え話も、「全財産の放棄」を要求するイエス様の言葉と矛盾します。
全財産を捨てたら、一銭も手元に残りません。そうなれば、塔を建てるのに十分な費用があるかどうかを計算する「必要」が、そもそもありません。
王がどれだけの兵士を抱え、どれだけの軍備を整えられるかだって、経済力に直結しています。
さらに、「イエス様に倣う者は自分の命を憎んで、ただちに命を捨てるんだ!」という話になれば、イエス様に倣って生きる人は一人もいなくなります。
「私はイエス様に倣って生きてゆきます」と言ったと同時に、「では今すぐ命を捨ててください」ということになってしまうからです。
そうしたら、イエス様に倣って生きる者たちも、神の国を指し示す共同体も存在しないということなります。
ですから、今日の福音書朗読箇所「も」、「文字通り」に理解しようとすればするほど、無意味になります。
そうすると、「洗礼を受けてクリスチャンになっても、家族と絶縁する必要もないし、財産も命も捨てなくていいし、何もかも今まで通りだ!」という話になるのでしょうか?
そうではありません。イエス様に倣って生きることは、コストを伴うという事実は残ります。
イエス様が語る「神の国」には、血縁による家族に対する敵意があります。
血縁による家族は最も深くて強固な関係でもありますが、最も壊滅的な破綻が起こるところでもあります。
それをイエス様は知っているだけではなくて、自ら経験してもいました。
イエス様が語った神の国は、血縁を超えて、人類全体を巻き込んでゆく祝宴共同体です。イエス様は、この新しいコミュニティーによって、血縁による家族が置き換えられるべきだと確信していました。
イエス様に倣って生きる者たちに与えられた使命は、自分たちが置かれた場所で、この祝宴共同体の地域的現実となることです。神の国を指し示す共同体として成長することです。
それは極めてローカルな出来事ですが、そこに神の国の祝宴という普遍的なヴィジョンが具現化します。
これを実現するために、ナザレのイエスに倣って生きる者たちが払うべきコストがあるのです。
ところが、多くの教会は、イエス様に倣い、神の国を指し示す共同体を成長させるためにコストを担おうという人を生み出せなくなりました。
数年前から、東京教区と北関東教区は、合同教区の創設に向けて動いていますが、ちょうど昨日、合同教区の教区費分担金制度についての話し合いが行われました。
マーガレット教会からも、会計担当の方が参加してくださっていました。
私は、話し合いのための資料を読んで、非常に暗い気持ちになりました。その中に書かれているのは、教会の終焉を告白しているような内容だったからです。
まず、合同教区の分担金制度を語る時に想定されているのは、会社の本社と支社、あるいは本店と支店モデルです。
しかし、教区は本社でも本店でもありません。地域教会は支店でも出張所でもありません。
教会として存在するのは地域教会だけです。教区は、地域教会の働きをサポートするための機能に過ぎません。
ところが、恐らく、東京教区と北関東教区だけではなく、日本聖公会全体が、地域教会を再生する道筋を見出せないまま、tipping pointを超えて、限界集落化しました。
新教区の分担金制度として語られている内容を見ると、合同教区は(も)、限界集落となって消滅が避けられなくなった地域教会が、分不相応な土地とハコモノを維持できるような「制度」を作ろうとしています。
そのことを明確に述べているのは、資料の中に記されていたこの言葉です。
「両教区の合併を契機に、各教会・礼拝堂が宣教の働きの拠点として力を発揮できるように、信徒全員で教役者給与全体を支える体制の構築が必要なのではないか。教役者給与分担金を各教会・礼拝堂の信徒数に従い分担する方法を採用してはどうか」。
牧師の給与は、牧師が働いている教会が払う。これは世界中の教会が共有する常識でしたし、日本聖公会の法憲法規もそう定めています。
ところが神学もなければ、経済倫理もないこの提案からは、神の国の祝宴共同体として地域で花開き、成長する教会が、完全に消滅しています。
ここで提案されている制度が目指しているのは、消滅状態となった地域教会に、人件費負担を回避して、分不相応な土地と建物を維持させることです。
私は洗礼準備の時に必ず、教会は建物じゃない、イエスの名によって集められた人なんだ、コミュニティーなんだという話しをします。
どんなに「いい場所に」、どれほど立派な「聖堂」があろうと、共同体として生き、成長することに失敗したなら、そこに教会はありません。
「教役者給与分担金を各教会・礼拝堂の信徒数に従い分担する」という提案は、「教会無き教会の延命策」です。
神の国を指し示すローカルな共同体としての教会が消滅した後に残るのは、教役者給料を払うために事業主化した教区だけです。それはもう教会ではありません。
そのとき、教区という事業主が展開する事業収入から給料をもらう存在となった私たち教役者は、もはや牧師でもチャプレンでもありません。
そのとき、私たちの実態は、教区という事業主が展開する事業所の所長か支店長に過ぎません。
Establishmentが、組織が命を破壊する。西洋世界全体で普遍的に起きている現象が、今、教会の中でも起きています。
教区が無くとも、教会は存在することができます。しかし地域教会無き教区に、存在意義はありません。地域教会の再生無くして、教会の再生はありません。
神の国の祝宴共同体となるために私たちを招かれた神が、共同体を支えるためのコストを担う仲間を与え続けてくださいますように。
