聖霊降臨後第14主日 説教

2025年09月14日(日)聖霊降臨後第14主日

出エジプト32:7-14; Iテモテ1:12-17; ルカ15:1-10

 今朝の福音書朗読の中には、当時のユダヤ人社会の中で、決して交わることのない、二つのカテゴリーの人々が登場します。

 イエス様のもとにやって来て話を聞こうとした「徴税人や罪人」は、「汚れた者」たちです。それに対して、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」は「聖い者」たちです。

 「聖いもの」と「汚れたもの」。この区別こそ、イエス様の時代のユダヤ人社会にとって絶対的土台でした。

 「聖いもの」と「汚れたもの」との分離は、神の祝福と呪いに直結していると考えられていました。

 旧約聖書に収められている最初の5つの書物は、「律法」、「トーラー」と呼ばれ、「神の掟」と見做されていました。

 神の掟に従って、聖い生き方をすることが神に受け入れられ、祝福を得る道であり、それに背き、汚れた者は、神に呪われ、破滅の道を歩むんだ。そう信じられていました。

 1節に登場する「徴税人」と「罪人」と呼ばれる人たちは、ユダヤ人社会の中で「汚れた者たち」を代表する存在です。

 彼らは、「聖い生き方」をしている人たちからは、神に呪われ、滅ぶべき者としてさげすまれていました。

 当然のことながら、ファリサイ派も律法学者も、徴税人や罪人を徹底的に避けていました。汚れた者たちと交われば、自分も汚れるとされていたからです。

 今日の福音書朗読の箇所で、ファリサイ派と律法学者たちが批判しているのは、イエス様のライフスタイルそのものです。

 イエス様の周りには常に、罪人や徴税人、さらには遊女たちまでいました。そしてイエス様は日常的に、彼らと共に食事をしていました。

 これは、イエス様が罪人の仲間だったというだけではなくて、イエス様自身も罪人であったということを意味しています。

 ユダヤ人社会の中で、何が罪で、何が罪でないかを判断する基準は「律法」、「トーラー」です。

 ところがイエス様は、これに従って生きることに、全然関心がありませんでした。

 イエス様は律法破りの常習犯で、度々、ユダヤ人社会の指導者たちから批判されています。

 ですから、繰り返しになりますが、イエス様はユダヤ人社会の絶対的基準である律法に照らせば、罪人の仲間であるだけではなくて、罪人です。

 彼は、「私は律法を破ってもいないし、罪人でもないんだ」と弁解をする代わりに、「罪人を探し、恵みと慈しみを注ぐ神」について語りました。

 一つ目の例え話では、100匹の羊を所有している羊飼いが、迷子になった1匹の羊を探すために、99匹を置き去りにして出かけていきます。

 2つ目の譬え話では、10ドラクメしか持っていない貧しい女性が、必死になって失った1ドラクメ銀貨を探す姿が描かれます。1ドラクメは1デナリオンと等価です。

 この二つの例え話は、イエス様の時代に、誰もが知っていた日常的な素材から取られていますが、そこで語られているのは、現実には絶対にありえないことです。

 99匹の羊を置き去りにして、迷い出した1匹の羊を探しに行く羊飼いなど、現実には存在しません。

 そんなことをすれば、たとえ迷子になった1匹が見つかったとしても、置いていった99匹を失うことになります。

 失われた1枚のドラクメ銀貨を求めて、ランプ片手に真っ暗な家の中を探し回れば、残りの9枚の所在がわからなくなります。

 羊飼いの行為も、女性の行為も、経済的利益と損失の計算を無意味にしてしまうほど馬鹿げているんです。

 失われた1匹の羊も、1枚のドラクメ銀貨も、経済的常識で言えば、「小さな損失」として済ますべきものです。

 本当は、いなくなった1匹の羊なんか探してはいけません。99匹の羊が手元にまだいることを喜び、失われたのが1匹で良かったと思うべきです。

 無くなった1枚のドラクメ銀貨を探す代わりに、残りの9枚が無くならなかったことを喜ぶべきです。

 もちろんイエス様も、自分の話していることが、現実の世界では起こらないことは知っています。

 イエス様は、経済的損益の計算に見合わないような話を通して、誇張方を用いて、愛と慈しみにおいて限界を知らない神の姿を描こうとしているのです。

 律法に従って生きることを諦めた汚れた連中は、ユダヤ人社会にとっては「取るに足らない」存在です。

 ユダヤ人指導者たちにとっては、イエス様の周りに集まっていた人々は皆、汚れた連中であり、神に呪われた、滅びるべき存在でした。

 しかし指導者が、社会の中心にいる者たちが、「取るに足らない」と言って捨てる者たちを、神は探し出し、見出された者たちの「存在」そのものを喜ぶんだ。そうイエス様は言ったのです。

 羊が羊飼いのところに帰って来たから、神様は喜んでいるのではありません。そもそも、2番目の物語に出てくるコインが、歩いて持ち主の元に帰ってくることなんかありません。

 ですから、イエス様が語った神は、「罪人が悔い改めるから」喜ぶ神ではありません。罪人を見出して、罪人の存在を喜ぶ神なのです。

 神の恵みと慈しみは、私たちの働きの対価として与えられる報酬でもなければ、人よりも優れたことをしたことによって与えられる賞でもありません。

 恵みが恵みであり、慈しみが慈しみであるのは、「受けるに値しないのに、一方的に与えられている」からです。

 欠けだらけの私たちが、神に見出された存在であることに気づいた時、神の恵みと慈しみの中で生かされていたんだと気づいた時に、感謝と喜びに満たされます。

 聖マーガレット教会が、神に見出された感謝と喜びを持って歩む罪人の群れであり続けることができますように。

 そして、新たにここを訪れる人たちが、神に見出されるコミュニティーであれますように。