聖霊降臨後第15主日

9月21日(日)聖霊降臨後第15主日
アモス8:4-7; Iテモテ2:1-7; ルカ16:1-13


主人の財産を使い込んだ不正な管理人が、主人から褒められる。教会の歴史の中で、多くの説教者がこの物語に頭を抱えてきました。


しかし、三位一体の第二位格であるイエス・キリストという教義を一旦脇に置いて、福音書の行間を読み、歴史的人物としてナザレのイエスを再発見すると、今日の物語は、とてもイエス様らしい話しとして現れます。


今日の物語を解き明かす鍵は、イエス様が「富の蓄積」をどのように見ていたかにあります。


結論から言うと、イエス様にとって、不正の無い富の蓄積というのはありませんでした。

富が積み上がるところには必ず不正があり、そのために貧しくされ、命を脅かされる人々がいる。そうイエス様は見ていました。


神は世界を、すべての人が生きるために必要な富で満たされました。世界に満ちる富は、すべての人を豊かに生かすのに充分です。


ですから、貧困は神が生み出しているものではなく、富を独占し、蓄積しようとする者たちが生み出しているということになります。

この富の蓄積に関するイエス様の認識には、カール・マルクスの認識と重なるところが大いにあります。


クリスチャンの中には、「共産主義」は無神論とセットになっているから、絶対に受け入れられない。しかし自由な市場、free marketという原理の上に立つ資本主義は、自由を重んじるキリスト教と対立しない。

そんな風に思っている方もあるようです。


しかし、話はそれほど単純ではありません。カール・マルクスは、産業革命後のイギリス社会の残虐さと、人を非人間化する醜悪な経済原理を目の当たりにしました。


18世紀後半から19世紀前半に起こった産業革命によって、人間の機械化が始まります。工場の機械のペースに合わせて、機械の歯車として、人間が使われるようになったのです。


労働者が生み出した富、すなわち繊維、機械、その他のあらゆる商品も、それを売った収益も、すべて労働者の手から奪われ、資本家の手に渡ります。


資本家たちは、労働者が死なずに、次の日も工場にやってくるために必要な分しか、賃金を払いません。資本家は、富を蓄積するために労働者を搾取し、彼らは、永久に、貧困状態の中に捨て置かれている。


マルクスが見ていたのは、労働者たちが置かれた、残酷な現実でした。

カール・マルクスはユダヤ人でしたが、ユダヤ教徒ではなく、クリスチャンでした。

父ハインリッヒ・マルクスは弁護士でしたが、プロイセンの法曹界で働くためにはキリスト教に改宗する必要がありました。カール・マルクスも6歳の時に、ルター派の教会で洗礼を受けて、キリスト教に改宗しました。


マルクスの共産主義に、使徒言行録の中に描かれている理想的な教会、財産を共有する共同体の姿が、影響していないはずはありません。


しかし、共産主義の思想を発展させるプロセスの中で、彼はキリスト教を完全に捨て去ります。マルクスに神を退ける決断をさせたのは、ナザレのイエスが示した神をマモンと取り替えた、キリスト教国の教会です。


13節の「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」という部分で、「富」と訳されているのは”μαμωνᾷ”という言葉です(英語ではMammon)。


“μαμωνᾷ”は神に取って代わり、人を支配し、「主人」の座に就く偽りの神であり、イエス様が語った神の国にとって、最大の抵抗勢力です。


無限の富の蓄積を目指すこの世の経済は、マモンの支配する領域です。だからこそ、この世の経済は必ず貧困を生み、人を機械の歯車にし、非人間化を引き起こすのです。


キリスト教は、ナザレのイエスを権力者と金持ちの味方に、彼が語った神の国を、死後の魂が憩う天国という幻想に取り替えてしまいました。


こうしてキリスト教はアヘンに、偽りの慰めになり、教会は貧しい者たちを、労働者たちを捨てました。


マルクスは、教会が放棄したナザレのイエスの理想を、神の国を、教会に代わって実現しようとして、こう叫びました。


「あなたたち教会は、貧しい人々のことを気にかけているといいながら、抑圧者の側にいる。あなたたちが語る天国は、貧しい人々を手なづけておくための幻想だ。あなたたちは『それぞれが自分の能力に応じて生み出したもので、それぞれの必要が満たされる』共同体について口先で語るだけだが、私は地上でそれを実現するための現実的、かつ科学的な道を示そう。」


「共産主義」は無神論とセットなんだから、クリスチャンは共産主義を退けるべきだと言うのであれば、「資本主義」は「マモン崇拝」だということも知っているべきです。「マモン崇拝」は「拝金主義」です。

20年後、パレスチナの悲劇は「歴史」として語られるようになっているはずです。


その時、子どもたち、生徒、学生たちは、シオニストによるパレスチナ人の民族浄化とガザの虐殺を支え続けたマモン崇拝国の倫理的崩壊を、驚きと軽蔑をもって振り返ることでしょう。

マルクスは貧しい者たちの抑圧を正当化するキリスト教を、マモンを崇拝する教会を退けました。


無神論者となったマルクスですが、もし彼がナザレのイエスが語る神の国の福音聞いたなら、喜んでそれを受け入れたでしょう。そして、イエス様の良き友となったはずです。


他方、自称クリスチャンのトランプは、神の国の福音も、それを語ったナザレのイエスも、嫌悪するに違いありません。

 経済と政治がマモンに支配されている世界の中で、イエス様が語った神の国を成長させるためには、不正な管理人の「賢さ」が必要です。

 富の蓄積のために犠牲となった人々のために、不正な富を用いることのできる者たちと、搾取され、貧しくされた人々とを一つに集めることができるのは、不正な管理人の「賢さ」です。

 マモンが支配するシステムを出し抜く機知が、神の国をこの世に引き入れるんです。

ナザレのイエスを通して、神の国のヴィジョンを示された神が、私たちを不正な管理人としてくださいますように。