







2025年10月5日
聖霊降臨後第17主日
ハバクク1:1-4,2:1-4; IIテモテ1: 1-14; ルカ17:5-10
実は、私が毎週日曜日の説教準備のために、必ず参照する1つの資料があります。
それは1993年に初版が出版された、The Five Gospelsという本です。
この本は1985年1991年まで、200人の福音書研究者で構成されたJesus Seminarという研究プロジェクトによる、史的イエス研究の成果です。
彼らが目指したのは、トマス福音書を含む5つの福音書の中に、イエスの言葉として記録されている1,500節の中から、ナザレのイエス自身の言葉を特定することです。
Jesus Seminarは、1,500節のうち270節、イエスの言葉として5つの福音書に記されている言葉全体の18%を、確実にナザレのイエスに遡ることができると判定しました。
この270節は、The Five Gospelsの中で、赤い文字で印刷されています。
100%とは言えなくても、ほぼ確実にイエス様にまで遡るだろうという言葉はピンクで。
その通りのことをイエス様が言ったとは言えないけれども、イエス様の言葉、教えを反映していると思われる部分はグレイで印刷されています。
もちろん、Jesus Seminarとその研究成果を批判する人たちも少なからずいますが、批判の大部分は、極めて護教論的な立場から成されています。
しかし学問的には、Jesus Seminarの研究とその研究成果であるThe Five Gospelsは、歴史批評に基づく福音書研究として、賞賛に値します。
Jesus Seminarの研究成果として示された、ナザレのイエスに帰されている1,500節の18%にあたる270節は、確実に彼の発した言葉だと言える。これは極めてminimalist的な声明です。
この18%、270節は、ナザレのイエスが語った神の国の中心に、何があったのかも明らかにしてくれます。
それは同時に、私たちが、教会の教義や伝統として受け継いできたものの中から、何を捨て、何を残すべきかを判断するための道しるべともなってくれます。
私に、ナザレのイエスがパリピであったことを気づかせてくれたのも、史的イエス研究の成果でした。
さて、今朝の福音書朗読は、極めて説教者泣かせの箇所です。特に、7節から10節のイエス様の言葉は、とても信仰を増す助けになるとは思えません。
「自分に命じられたことをみな果たしたら、『私どもは役に立たない僕です。すべきことをしたにすぎません』と言いなさい。」そう聞いて、「やる気がみなぎってきました!これで頑張れます!」と言う人は、きっといないでしょう。
実は、ルカ福音書の12章35節から37節には、まったく正反対のエピソードがあります。短いのでお読みします。
35「腰に帯を締め、灯をともしていなさい。36 主人が婚礼から帰って来て戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。よく言っておく。主人は帯を締めて、その僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる。
主人が夜に帰ってきて、僕たちが起きているのを見たら、主人が僕たちを席に着かせて、主人が給仕をしてくれる、そう言うんです。
ここには、神様がすべての人を招き、満ち足りるまで食べさせ、飲ませてくれる、大宴会としての神の国のイメージが反映しています。
ちなみに35節から37節は、The Five Gospelsではグレイになっています。
そのままのことは言っていないだろうけれども、イエス様自身の教えが反映しているだろうという評価です。
それに対して、17章7節から10節は黒い文字で印刷され、ルカ福音書の作者の言葉だろうとコメントされています。
私もこの判断は正しいと思います。一つだけつけ加えると、ルカ福音書と使徒言行録の著者はパウロの門下生で、17章7節から10節には、信仰を服従、従順として語るパウロの信仰理解が、強く反映しているということです。
「しのごの言わないで、言われたことを黙ってやりなさい!」いかにもパウロが言いそうです。
さて、今日の福音書朗読の前半部分、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根を抜き、海に植われ』と言えば、言うことを聞くであろう」と並行する言葉は、マルコ11章23節、マタイ17章20節、21章21節、そしてトマス福音書にも出てきます。
木が根こそぎ抜けて海に入るとか、山が動くという表現は、神への信頼が大きなことを可能にすると言うための誇張方法で、イエス様の時代の、通俗的な知恵でした。
信頼や信念といったが、大きなことを可能にすることは、さまざまな場面で語られていますし、医学の世界でもプラセボ効果(placebo effect)として知られています。
医師や処方される薬に対する信頼が、薬の効果や患者の回復に、大きな影響力を持っていることは、よく知られた事実です。
しかしそれは、「信仰があれば、奇跡も起こせる」、「空中浮遊もできるようになるんだ!」というような類いのものではありません。
ナザレのイエスが示された神への信頼は、イエス様が語った神の国のヴィジョンを生きることが、世界を変えるんだという信念です。
ナザレのイエスに倣って生きること、彼が語った神の国の福音を生きるということは、私たちが一生懸命お祈りすると、神様はそれを聞いて、私の願いを叶えてくれるんです!」なんてことではありません。
イエス様が示された神への信頼は、「私」の生き方を変え、そして「私」の祈りを変えます。
神の国のヴィジョンを生きようとすればするほど、私たちは自分のために祈らなくなります。
ナザレのイエスと共に歩むとき、私たちは、賜物として与えられた命に、それを支える愛、恵み、慈しみの故に、感謝を捧げます。
神の国の到来を求める祈りは、共に、平和に、喜びをもって生きることの許されない人々の苦難を悲しみ、解放を求める祈りです。
苦しむ人々の解放を祈ることを通して、私たちは、自分自身の解放が、苦しむ人々の解放なしには起こらないことに気付かされます。
自分が解放されるために、苦しむ者の解放のために、小さな一歩を踏み出す。それがからし種のような、しかし世界を変える信仰です。
