聖霊降臨後第20主日 説教

2025年10月26日(日)聖霊降臨後第20主日

シラ書 35:12-17; IIテモテ4:6-8,16-18; ルカ18:9-14

 今日の福音書朗読で読まれた物語は、非常にイエス様らしい例え話です。

 イエス様らしい話の最大の特徴は、「常識」が完全にひっくり返されることと、「現実には絶対にあり得ないような舞台設定」です。

今日の物語で言えば、ファリサイ派の男と徴税人が、神殿でお互いに姿が見えるところで祈っているというシチュエーションは、ユダヤ人社会の現実としてはあり得ませんでした。

 「私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく」、「週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈っているファリサイ派の男は、ユダヤ人社会の超優等生です。

100人中100人が、「正しい人」「模範的人間」として認めるような人物です。そしてユダヤ人社会では、神の恵みと祝福を受けるに相応しいと誰もが認める、そういう男でした。

もちろん、本人も、神の掟に従って、模範的な生活をしているという自信があります。そして、神の掟に従って正しく歩んでいるから、神様は自分に恵みを与え、祝福を注いでくださっているんだと思っています。

 「私は、闘いを立派に闘い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今や、義の冠が私を待っているばかりです」という第二朗読の言葉は、ファリサイ派の男の祈りと重なります。

 他方、福音書朗読の例え話に出てくるもう一人の登場人物の徴税人は、文字通り、罪人の代名詞です。

徴税人は、「奪い取る者」「不正な者」「姦通を犯す者」であり、断食も神への献げものもしない、神に呪われた存在だと見なされていました。

 周りの人から「正しい人」と認められ、自分でも自分は正しい人間だと思っているファリサイ派の男に対して、徴税人は、周りの人から悪人として知られ、自分でも自分のことを悪人だと思っています。

 この状況を一言でまとめますと、ファリサイ派の男に関しても、徴税人に関しても、自己認識と、周囲の人からの認識の間に、ズレはありません。

 そうしますと、「社会の常識」を基準として受け入れて、その上に乗って生活をしている限り、話はここで止まっていいはずです。

 「ユダヤ人社会の常識」に照らせば、ファリサイ派の男は善人です。本人も周りの人もそう思っています。

 「ユダヤ人社会の常識」に照らせば、徴税人は極悪人です。本人も、周りの人間もそう思っています。

 ところが、イエス様はそこで止まらずに、物語の登場人物自身の認識と、それを支える「社会の常識」をみんなひっくり返してしまいます。

 そして、「義とされて家に帰った」のは徴税人で、ファリサイ派の男ではない。そうイエス様は言い放ちます。

 「義」とされるというのは、神様に喜んで受け入れてもらえるということですが、イエス様はここで、「神様は悪を行う人間を喜ばれる」と言っているのではありません。

 今日の例え話を理解するための鍵は、イエス様が、「正しい人はいない」ことを知っていたというところにあります。

 それは、人がこの世で生きている限り、悪に加担せずに生きている者は一人もいないということです。

 キリスト教の伝統的な言葉を用いれば、「人は皆罪人だ」と言えなくもないわけですが、キリスト教の教義では、イエス様は無原罪の、罪のない唯一の人間ということになっています。

しかし、イエス様自身は、「オレは罪から自由で完璧な人間だ!」とは思っていませんでした。むしろ、「正しい人はいない」と言うとき、そこにはイエス様自身も含まれていたはずです。

なぜなら、イエス様は「罪を悔い改めて」、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたからです。

 では、なぜ、「正しい人はいない」ことを知ることが、イエス様にとって、それほど大切なことだったのでしょうか?

 それは、「自分も悪人だ」ということを知らない人は、神の恵みを神の恵みとして知ることがないからです。

 私たちは、神から賜物として与えられた命を生きています。それは自分で作ったものではありません。

 そして、賜物としての命を支えるために必要なすべての恵みも、神からの一方的な賜物です。

 水も、空気も、太陽の光も、食料も、家を作るための素材となるすべてのものも、何一つ、私たちが作り出したものはありません。

賜物としての私たちの命を生かすために、無条件に、一方的に、無償で神様から与えられているもの、それが恵みです。

 ところが、「神は正しい行いをする人に恵みを与えてくださる」という人は、恵みを、自分の働きに対する「報酬」に変えてしまいます。

 無条件で、一方的で、無償の神様の恵みと祝福は、国籍も、国境線も、言語の壁も知りません。

 しかし、恵みを、「人よりも優れた行いに対する報酬」と考え始めた人間は、恵みを自分のもとに集めようとします。そして、恵み受けるに値する者を減らしてゆこうとします。

 恵みと祝福を報酬に取り替え、独占しようとする人々は、国境線の外からやって来た者を恵みの外に置き、自分と違う言葉を話す人を祝福の外に置きます。

 一旦、恵みと祝福が報酬となったところでは、その外に置かれる人が増え続けます。同じ国に住んでいる人であっても、同じ言葉を話す人でも、恵みと祝福の外に置かれるようになります。

 在日の人々、教育を受けることができなかった人々、障がいをもつ人々、高齢者、ひとり親家庭の親と子どもたち、離婚した女性たち。

 恵みの外に置かれた人たちが、その他にも沢山います。

 イエス様にとって、恵みを自分の正しい行いに対する報酬とする人こそ、神の国対する最大の敵でした。

 「私を憐れんでください」と祈るのは、自分が悪人であることを知っているからです。

 その人は、自分が受けている恵みと祝福は、自分の正しい行ないに対する報酬でないことを知っています。

 恵みを恵みとして知る人は、恵みの流れを止めてはいけないことを知っている人なんです。

その人たちは、恵みを報酬にすり替えた人が恵みの外に置いた人たちを、恵みの中に引き戻そうとします。それは神の国を世に引き込む働きです。

 先週の日曜日には、多くの人の働きに支えられて、チャリティー・バザーが行なわれました。

 年に1度のバザーは、小さな働きかもしれませんが、それは間違いなく、恵みの流れを止めないための働きです。

 恵みの流れを止めようとする世界の中で、たとえ小さくても、穴をこじ開けて、恵みを流れ出させる働きです。

恵みを報酬に変えようとする人々によって恵みの外に置かれてしまった人たちを、恵みの中に引き戻そうとする時、私たちは間違いなく、神の国のために働くことになります。

 国籍も、国境線も、言語の壁も知らない神様の恵みと祝福に感謝しつつ、恵みの外に置かれた人たちを、恵みの中に連れ戻す神の国の働きを、これからも共に続けていけますように。