








2025年11月9日(日)聖霊降臨後第22主日
ヨブ記 19:23-27a; IIテサロニケ2:1-5,13-17; ルカ20:27-38
1987年の春のある土曜日、原宿の竹下通りの入り口あたりのところで、カメラを持った男性に「ちょっといいですか?」と呼び止められました。
その男性は、自分の名刺を差し出しながら、いきなり「誰かに似ているって言われることない?」と質問をしてきました。
事情が飲み込めずに、「はい?」と聞き返したところ、「いや、芸能人の誰かに似てるって言われることない?」と改めて聞かれました。
それを聞いて、中学に入るか入らないかの頃から、欽ちゃんファミリーの風見しんごに似ていると言われることが増えたのを思い出しました。
それで、「風見しんごに似ていると言われることがあります」と答えると、その男性は、「あっ、やっぱり?何枚か写真撮らせてもらっていいかな?」と言いました。
何のことやらわからないまま、20枚くらい写真を撮られた後、その男性は、「ポップティーンという女の子向けの雑誌なんだけど、芸能人そっくりさんコーナーの企画に写真が載るかもしれないから、良かったら見てみて」という言葉を残してその場を去っていきました。
1,2週間後、本屋でポップティーンという雑誌を手に取ってパラパラとページをめくってみると、その時に撮られた写真の1枚が、芸能人そっくりさん企画のページに出ていました。
とは言っても、掲載されたのは履歴書用写真くらいのサイズのもの1枚で、しかも白黒でした。わざわざ買うほどのこともないやと思い、私はそのまま本屋を出ました。
ただ、これには後日談がありまして、雑誌に写真が載った数日後、私は有楽町から山手線に乗って浜松町に向かっていました。
すると新橋で、二人の女子高生が乗り込んできて、一人が「ねえ、今月のポップティーン見た?」と話し始めました。
そして「わたし、今、持ってんだけどさ、芸能人そっくりさんコーナーに、すっごい似てる人がいるの」と言いながら、カバンから雑誌を引っ張り出しました。
さらに、あろうことか、「この風見しんごの人、スッゴイ似てない?」と言いながら、横にいたもう一人の娘に、雑誌を開いて見せ始めたんです。
私は文字通り目の前で、その話を聞いていました。すると、それを見た娘が開口一番、「なに、この人!確かに似てるけど、顔がカエルみたい!」と言ったんです。
「カエルみたいな顔ですいません」と2人に言おうかと思ったんですが、浜松町に到着してしまったので、そのまま電車を降りました。
そんな変な出来事が2つ重なって、私はそれ以来なんとなく、風見しんごという人に親近感を感じていました。
それから20年後、私は大きな驚きと悲しみを感じながら、再び、風見しんごという人の名前をニュースで耳にすることになりました。
それは、風見しんごさんの娘さんが、世田谷区の交差点で、右折してきたトラックに巻き込まれて命を落としたという痛ましいニュースでした。
しかも、その頃、私たち夫婦と二人の息子は、世田谷区の聖公会神学院の寮に住んでいて、長男は風見しんごさんの長女と同じ小学校に通っていました。
ご本人と直接に面識があったわけではありませんが、変な親近感を感じていて、しかも長男と同じ小学校に通う娘さんが命を落としたというニュース、大きな衝撃を受けました。
その時以来、子どもが巻き込み事故で亡くなったというニュース目にする度に、私は風見しんごさんのことを思い出すようになりました。
そして先日、たままたネットでニュースを読んでいた時に、事故で娘さんを失って18年を迎えた風見しんごさんのインタヴュー記事が目にとまりました。
彼は、今でも、突然、亡くなった娘さんのことが頭をよぎって、涙が出てくることがあるそうです。
悲しみを乗り越える方法は一つで、それは娘さんが返ってくること。でも、それは不可能なのだから、悲しみを乗り越えることはできない。
「だったら乗り越えることをしなくていいじゃないか」。そう思ったら、すこしだけ気持ちが軽くなった。風見しんごさんは語られていました。
今朝の福音書朗読に出てくる、復活を否定するサドカイ派の議論の背景には、長男が息子を残さずに死んだ場合、次男以下の男兄弟が、長男の未亡人と結婚して、長男のために子どもをもうけなければならないと命ずる、律法の規定があります(申命記25:5, 6)。
旧約聖書の律法の書物を書いたある人たちは、「家の名」、「家名」を永続化させることによって、死の悲しみを乗り越えようとしました。
それは、死によって終わってしまうものを、人の力によって永続させようとする試みですが、どれほど有名人になろうと、いつかは必ず、名前も、存在したという事実も忘れ去られる時がやってきます。
復活があるかないかという議論のそのものは、愛する人を失って悲しむ者にとって、何の慰めにも励ましにもなりません。
イエス様に倣って生きようとする私たちは、死を超える希望を持っています。しかしそれは、復活があるかないかの議論にあるわけではありません。
そもそも、12使徒をはじめとするイエス様の弟子たちは、誰も、イエス様の復活など想定していませんでした。
イエス様が十字架に架けられた後に、彼が死から新たな命に移されるのを待っていた人など、一人もいません。
Jesus Movementを始動させた希望は、新たな命に起こされたナザレのイエスと共に、いえ、彼の内に、彼を通して、絶望する弟子たちの前に「現れた」のです。
イエスに倣う者たちの希望と慰めは、常にそこにあります。
とは言え、愛する友人を、家族を、子どもを失う悲しみは、この世にあって生きる私たちにとっては、変わらぬ現実です。
風見しんごさんが告白するように、愛する者を失った悲しみは、悲しみとして残り続けます。
それでも、私たちは、新しい命に起こされたイエス様を通して現された慰めと励ましと希望を、この世にあっても経験することができる。私はそう思っています。
それは、イエス様ご自身がそこに神の国を見た、この世の小さく貧しい者たちとの、罪人たちとの、食卓を囲む交わりの中にあります。
共に食卓を整え、互いに給仕をし、豊かな食卓を囲む時、私たちはこの世にあって、神様がイエス様を通して示された慰めと、励まし、そして喜びを味わうのです。
愛する人を失って悲しむ人が、慰めと励ましを、そして生きる喜びを味わうことのできるような働きが、聖マーガレット教会を通してなされますように。
