









2025年11月16日(日)聖霊降臨後第23主日(特定28)
マラキ3:19-20b; IIテサロニケ3:6-13; ルカ21:5-19
教会のカレンダーでは、今年も残すところ今日と来週、2つの日曜日を残すのみとなりました。
来週、の日曜日が今年最後で、11月30日の降臨節第1主日、Adventの第1日曜日から、新しい1年が始まります。
教会のカレンダーは、終末論で始まり、終末論で終わる構成になっています。
今日の福音書朗読も、「終わりの時に向けた心の準備」について語られているところです。
「積み上がった石が一つ残らず崩れ落ちる日が来る」とイエス様が語るエルサレムの神殿は、イエス様が宣教活動をしていた時には、Establishmentの中心でした。
ユダヤの政治、経済、宗教の中心がエルサレム神殿でした。神殿は力の源泉であり、金と権力と宗教的権威が集中するところです。
イエス様は、その神殿を批判し、神殿当局者と対立しました。イエス様の暗殺計画は、この神殿当局者たちから出てきました。
そして、イエス様を十字架にかけて、亡き者にすることに成功したユダヤ人社会のエリートたちは、これで神殿中心体制を守ることができる。そう思いました。
しかしイエス様が始めた神の国の運動は、彼が死んで、墓に葬られ、復活の主として弟子たちに現された後に、爆発的な勢いで、世界に広がっていくことになります。
Jesus Movementが、猛烈な勢いで世界中に広がっていくことができたのは、この運動が神殿というEstablishmentを必要としなかったからです。
ユダヤ人のクリスチャンたちは、ローマ軍と戦って神殿を守るように求められた時も、それを拒否しました。
ナザレのイエス自身がそうであったように、Establishmentから自由であることが、Jesus Movementの力の源泉でした。
そして神殿崩壊の知らせを聞いたクリスチャンたちは、ついにイエス様が帰って来て、神の国が完成する。そう思いました。
ところが、またしても、「最後の終わり」は来ませんでした。帰ってくると思っていたイエス様が帰って来ない危機の中で、教会は動揺し、多くのメンバーたちが、Jesus Movementから離脱してゆきました。
新約聖書に収められているすべての書物は、イエス様が帰って来ない危機に直面する教会を励まし、動揺するクリスチャンを立ち直らせるために書かれました。
実は、「新約聖書」と呼ばれる文書群が書かれるプロセスは、教会のEstablishment化、体制化と並行しています。
Jesus Movementは、書物に基づいて始まった運動ではありませんし、運動を導くためのマニュアルも存在しませんでした。
しかも、クリスチャンたちは、すぐにイエス様が帰ってくると思っていたので、書物を残そうという発想が、そもそもありませんでした。
新約聖書に収められている27の書物は、程度の違いはありますが、基本的にはみな、このように言います。
「イエス様は期待したほど早く帰って来なかったけれども、もうすぐ帰ってくる。だから忍耐して、準備をして待っていなさい」。
新約聖書を書いた人は、皆そう言いました。そして、制度化が進み、教会がEstablishmentとなると、この「教え」の固定化はさらに進みました。
その結果、イエス様が500年帰ってこなくても、1,000年帰って来なくても、「再臨」という教義が反復され続けることになりました。
一人の人にとって、この世における「絶対的終わり」は死ですから、誰も、死を超えて待つことはできません。
「その人は500年後に帰ってくるから、忍耐強く待っていなさい」と言うことに、意味はありません。
教会が、いつまで経っても、「イエス様は期待したほど早く帰って来てくれなかったけれども、もうすぐ帰ってくる」と言い続けることになったのは、自分たちが信じ、教えて来たことの過ちを認められなかったからです。
端的に言って、教会は、「終末」が何度もやって来るという単純な事実から目を背けました。
「最後の終わりの出来事」が、いつ、どのように起こるのかは、誰にもわかりません。けれども、その前に、多くの「終わりが」あることは、誰にでも分かります。
旧約聖書の預言書の中で、「主の日」や「終わりの」日の宣言が、何度となく繰り返されているという単純な事実からも、それは明らかです。
一つの時代の終わりには、新たな真理の登場と、古い常識、価値観、世界観の崩壊が伴います。
新たな真理、新たな事実を前にして柔軟に変化することのできない、自己目的化した体制は、終末の後にやってくる「新たな世界」で化石化します。
私たちは今、一つの終末の時代を生きています。これまでの常識、価値観、世界観が崩壊していく様を、私たちは目の当たりにしています。
今、この国の首相がますます依存を強めようとしている相手は、世界中で紛争と戦争を引き起こしている国です。
さらにその首相は、中国が台湾に対して武力行使に踏み切った場合には、集団的自衛権を行使できる日本の「存立危機事態になり得る」と言い放ちました。
アメリカは、中国と外交関係を結ぶに当たり、中国政府との間で、次のことを確認し、約束しました。
「中国は一つであり、台湾は中国の一部である」こと(上海コミュニケ1972)。
「中華人民共和国政府を中国の唯一の合法政府として承認し」、「台湾との公式な外交関係を断絶」すること(国交樹立共同コミュニケ1979)。
そして、台湾への武器供与を「徐々に減らし」、最終的には「終結に導く」(8.17コミュニケ1982)こと、です。
ですから、台湾問題に関して言えば、中国側に、非難されるべきことは何もありません。
問題は、その事実を知らないのか、あるいは知らないふりをしているこの国の首相です。
北でロシアと接しているアジアの一国として、日本は、一体、どのように生きていこうとしているのでしょうか?
ナショナリズムは、問題の当事者である自分たちから目を逸らさせ、責任転嫁をするために、為政者が振るう魔法の杖です。
排外主義を煽るのはナショナリズムです。移民排斥を訴えるのはナショナリズムです。差別主義を正当化するのはナショナリズムです。
しかしナザレのイエスが語った神の国の中に、ナショナリズムの場所はありません。
この終末の時代に、教会がJesus Movementであり続けようとするなら、その最大の障害はナショナリズムです。
今週の土曜日、11月22日に行われる教区会は、東京教区として最後の教区会になる予定です。
東京教区と北関東教区が、一つの組織になったところで、それが教会の再生に直結するわけではありません。
教会の暦の終わりと始まりの時にあたり、私たちはもはや、「主が来られるのを忍耐して待っていなさい」と言いながら、いつも通りのクリスマスを迎えるだけでは済まされません。
それはむしろ、終末の時代を生き延び、新しい世界で、Jesus Movementとして再生するために、教会が犯して来た過ちと、真理として語ってきた多くの偽りと向き合う時でなくてはありません。
教会が真理として語って来たことが間違いであっても、神様は困りません。私たちも困りません。
困るのは、間違いを認められずに、間違いを正しいこととして語り続けようとする者たちだけです。
イエス様は、神殿というEstablishmentを必要としない、神様の姿を人々に示しました。
ナザレのイエスが示した神様は、神の国のヴィジョンを生きようとする罪人たちが、共に集まり、食卓を整え、祝宴を開く時、そこに現れる神です。
聖マーガレット教会が、この終末の時を超えて、イエス様が示された神の国のヴィジョンを生き、祝宴の場に現れる神様に人々が出会う場となれますように。
