降臨節第1主日 説教

2025年11月30日(日)降臨節第1主日

イザヤ書 2:1-5; ローマ13:11-14; マタイ24:36-44

 今年もついに降臨節を迎えました。このアドヴェント(Advent)第1主日をもって、教会の新しい一年のサイクルが始まりました。

 私は11月に入ってから、毎週のように、「教会のカレンダーは終末論で始まって、終末論で終わる」と繰り返してきました。

 それは、今日の特祷、第2朗読、そして福音書朗読からも明らかに見てとることができます。

 しばしば、「降臨節はイエス様のご降誕を迎える準備の期間」と言われることがあります。

 でも本当は、Adventはイエス様の降誕を迎える準備の時ではありません。降臨節は、再臨のイエス様を迎えるための準備期間です。

 「イエス様が帰ってきた時にお迎えする準備をしなさ~い!」そう言うために、降臨節という期間は(も)定められています。

 そして「イエス・キリストの再臨」という教義はそのまま、教会の「救い」に関する教えに結びついています。

 今日の特祷の中にはこうあります。「どうか、終わりの日に生きている人と死んだ人とを審くために主が栄光をもって再び来られる時、私たちを永遠の命によみがえらせてください。」

 伝統的な終末論の中では、「キリストの再臨」の時は、それまで封印されてきた神の暴力が、完全に発動され、イエス・キリストを受け入れなかった者はすべて滅ぼされ、正統教義を受け入れ、「カトリック教会」に属している者だけが救われる時です。

 神の暴力に深く結ばれた終末論的救済論は、教会の歴史の中で、狂気と暴力とを正当化するための道具として、繰り返し利用されて来ました。

 イエス様が語った神の国の逆説は、イエス様が「アッバ」と呼んだ神から来ています。

 イエス様が示した神は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方です。

 しかし教会は早くも1世紀の半ばには、敵を滅ぼす神に惹かれ、そこに帰っていきます。

 そして「自分たち」は救いに定められているけれども、「他の者たち」は滅びに定められていると言い始めます。

 私は以前、新約聖書時代には、完全な教会があったかのような幻想を抱いていました。

 しかし、実際に新約聖書に収められたテキストを読んで見れば、1世紀の教会も問題だらけで、イエス様から大きく離れていったんだということに気づきます。

 降臨節を貫く終末論には、キリスト教のもっとも深い闇が潜んでいます。ですから私たちはこの時を、神の暴力を期待する終末論と手を切り、新たな終末論を見出すために、教会の伝統の中にある、深い闇を見つめる時としなくてはなりません。

 闇を照らすのは真理の光です。しかし教会は、真理の光を恐れてきました。私は、「伝統的キリスト教」の没落を決定的なものとした、「3つの真理の現れの時」があったと思っています。

 それは、コペルニクスとガリレオによる太陽中心の天体モデル(ケプラーについては触れる時間がありません)、ダーウィンの進化論、そして聖書学が生まれた時です。

 コペルニクスとガリレオは、地球が宇宙の中心ではないことを示しました。

 ダーウィンは、命の歴史と神秘を示しました。

 聖書学という学問は、聖書が人間の書物であることを示しました。

 教会は、この3つの発見がもたらした真理の光に背を向け、伝統が生み出した理念の世界を守ろうとして、新たな真理を否定することに力を注いできました。

 こうして、真理の光に照らされ、信仰を刷新する道が閉ざされてしまいました。

 私は、今日から始まる降臨節を、教会が背を向けた「3つの真理」に向き合いながら、新たな終末論を模索する時としたいと思います。

 1500年代の初め、コペルニクスは、遠洋航海をする船乗りを悩ませる、火星の逆行運動のことを耳にします。

 これは、地球が約365日で太陽の周りを1周するのに対して、火星は687日で公転するために起こる現象です。

 地球は、約2年に1回のペースで、火星に追いつき、追い越します。地球が火星を追い越すと、地球からは、火星が逆行し始めたように見えます。

 コペルニクスは、地球と火星が太陽の周りを回っているとしたらどうなるだろうと思い付き、計算にとりかかります。

 すると、すべての天文学者たちを悩ませてきた難問が、あっという間に説明できてしまいました。

 こうして太陽中心の天体モデル、地動説のプロト・タイプが生まれます。

コペルニクスが発見した太陽中心の天体モデルは、『天球の回転』という大著にまとめられ、彼の死の直前、1543年に出版されました。

ところが、出版された『天球の回転』には、コペルニクスの意志を無視した、前書きが加えられていました。

「これらの仮説は、絶対に正しいというわけでも、確信をもって本当らしいとも言えないが、計算が観測に適合するかという一点で十分なのだ。」

 この前書きは、出版監督を務めていたオジアンダーという神学者によって書かれたものでした。

 このオジアンダーの前書きが功を奏し、『天球の回転』は、1545年から1563年に開かれたトリエント公会議に集まってきた教会指導者たちから、より精密なカレンダーを作成する助けになるとして歓迎されました。

 要は、オジアンダーの前書きは、コペルニクスが提示したのは、単なる数学的なモデルであって、太陽中心モデルに従って、実際に天体が動いているわけではありませんと言うことで、教会当局の反発を抑えることに成功したわけです。

その結果、教会は、より精密なカレンダーを作成する上で役にたつ理論として地動説を受け入れながら、地球中心モデル(天動説)を維持できるという幻想の中に留まることになりました。

しかし、数学的モデルとして提示されたコペルニクスの太陽中心の天体モデルは、望遠鏡を駆使したガリレオの観察によって、実際の天体の動きであることが示されます。

ガリレオは1610年に、『天界の報告』(Sidereus Nuncius)という論文を書いて、コペルニクスが正しかったことを証明します。

 しかし、1615年、ガリレオは異端審問にかけられます。そして、「太陽は世界の中心にあって動かない」、「地球は世界の中心でも不動でもなく、太陽の周りを廻っている」という説は、聖書と矛盾する異端であるとして、取り消しを要求されました。

 教会は、コペルニクスとガリレオが発見した真理を「真理ではない」と言って退けただけでなく、全ての人が真理を退けることを要求したのです。

 こうして教会は、伝統を盾にして真理を拒否し、現実の世界を拒否して、教義の体系を守ろうとました。

 しかし地球が宇宙の中心ではないことを明らかにしたコペルニクスとガリレオは、同時に、教会が真理を握っているのではないことをも明らかにしました。

 教会は未だに、真理の支配者であろうとしてきた罪と、その罪が世界の闇を深めてきた現実と、正面から向き合い、方向転換することができていません。

 その悔い改めの一歩を、私たちは踏み出したいと思います。

 世界は教会よりも大きく、教会が真理を支配しているわけはないことを認め、真理の源である神を愛し、神が造られた世界を愛し、神と世界に仕える教会として成長することを願います。

 教会の中には、「死」という絶対的な闇を越える希望を与え、喜びを持って生きる道を示される、ナザレのイエスがおられるだけです。

 しかし、それだけで、イエス様がおられるだけで、私たちが悔い改め、教会が新しい一歩を踏み出すのに十分です。

 ナザレのイエスを通してご自身を現された神が、全人類とすべての被造物を、暴力の力から、闇の力から解放する新たな終末論へと、私たちを導いてくださいますように。