降臨節第2主日 説教

2025年12月07日(日)降臨節第2主日

イザヤ11:1-10; ローマ15:4-13; マタイ3:1-12

今週と来週、降臨節第2と第3主日の2週に渡って、福音書朗読にはバプテスマのヨハネが大きく登場します。

 1世紀の教会にとって、バプテスマのヨハネという人は、大きな頭痛の種でした。

バプテスマのヨハネは、イエス様に先立って、「神の国」の到来を宣言した人です。教会に先立って、罪の赦しのために洗礼を授けていたのも、バプテスマのヨハネでした。

教会はイエス・キリストのことを、「罪からの救い主」として語ろうとしました。ところがイエス様自身は、罪を告白して、バプテスマのヨハネから、罪の赦しのための洗礼を受けて、彼の弟子集団に加わりました。

弟子になるということは師匠の権威の下に自分を置くということです。イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けて、彼の弟子になったということは、イエス様がバプテスマのヨハネの権威に服従したということになります。

 教会は、バプテスマのヨハネをおとなしくさせて、イエス・キリストの権威の下に従わせるために頭を悩ませ、バプテスマのヨハネを、イエス様のために道備えをする人として描くことにしました。

 バプテスマのヨハネという人は、教会の自己弁護として発展した教義を揺るがす存在です。

 教会にとって、イエス様が罪を告白して、バプテスマのヨハネから罪の赦しのための洗礼を受け、彼が展開していた神の国運動に加わったというのは、極めて不都合な真実です。

 しかし、一旦はバプテスマのヨハネの弟子となったイエス様が、あっという間に師匠と袂を分かち、独自の神の国運動を始めたという歴史的事実は、イエス様が語った神の国を知るための、大きな手掛かりになります。

 イエス様がバプテスマのヨハネと袂を分かつことになった最大の要因は、「神の国」に関する理解の違いだったはずです。

 バプテスマのヨハネにとって、神の国は「世界の終わり」の、最後の審判と共にやってくるもので、人はただその到来を待つだけです。

バプテスマのヨハネが授ける「罪の赦しのための洗礼」は、最後の審判の時に、神の怒りを免れ、滅びを免れるための準備でした。神の国のために、人間の側でするべきことは、他に何もありません。

 しかしイエス様の神の国は、ただ単に「やって来る」だけではありません。イエス様の神の国にとって、人は神の国の共同建設者です。

 人は、神の呼びかけに応えて、神の協力者として、神様と共に、神の国の建設に関わるのです。イエス様の神の国は、すべての現在が、未来と交わるところです。

 神の国は、私たちが、教会が、イエス様の呼びかけに応えて生きる時、部分的にではあっても、今、ここに、その姿を現します。

 11月24日の月曜日(休日)、夫婦で「ボンヘッファー」という映画を観に行きました。

 これは、ナチス政権下のドイツで、ヒトラーに対する抵抗運動(レジスタンス)を率いた若き牧師、ディートリヒ・ボンヘファー (Dietrich Bonhoeffer) を題材とした実話です。

 ボンヘッファーは、ヒトラーが自殺し、ドイツが降伏して戦争が終わるわずか2週間前に、ヒトラー暗殺計画に加わった罪で絞首刑となり、36歳の若さで生涯を閉じました。

 この映画の時代背景は、ヒトラーがドイツ議会を停止して全権を掌握し、総統 (Führer) となった1933年から1945年のドイツ敗戦直前までですが、映画を観ながらひしひしと感じたことは、この国の状況も、西洋世界の状況も、ナチス政権が生まれた時代に、恐ろしいほど似ているということでした。

 21歳の若さで博士論文を完成させたボンへファーは、優れた神学者でもありました。

彼は獄中で「愚鈍/馬鹿さについて」(Von der Dummheit)という短い草稿を書き残し、その中で「善にとって、悪意よりも危険な敵は、愚鈍である」と指摘しています。ボンヘファーは、多くの知識人がナチズムの狂気に膝を屈めた現実を通して、愚鈍は知的な欠陥ではなく、人間的欠陥であるということに気づきます。

 知的には極めて頭の回転が速くて優秀なのに愚鈍な人間がおり、頭が良くはなくても、まったく愚鈍ではない人もいるのです。

 さらに彼は、政治的であれ宗教的であれ、外に向かって、強力な力が誇示されるとき、愚鈍が大部分の人々を思考停止状態に陥らせるという社会心理学的法則を見出します。

 この法則は、ヒトラーが全権を掌握するプロセスの中に、教会がナチズムに飲み込まれ、膝をかがめていくプロセスの中に働いています。

 さらに、この法則は、一部の人間が絶対的権力を掌握するためには、他の人々の愚鈍を必要とするという真理を開示しています。

 1990年代半ばのバブル崩壊以降、今に至るまで続く日本の衰退と私たちが直面する社会の問題に関して責任を問われるべきは、戦後80年の大部分で政権を担ってきた政党とその政治家であって、外国の人々ではありません。

 ところが日本社会の直面する問題が、あたかも中国や韓国の人々が引き起こしているかのような差別主義的言動が、自称保守政治家やその支持者から聞こえてきます。

 政治家たちが民族主義や愛国心を連呼し、差別主義や移民排斥を煽り、外国人が問題の中心であるかのように語るのは、自らの無責任と失敗から、人々の目を背けるための常套手段です。

 それはまた、愚鈍が力を握り、人々の思考を停止させ、独裁的政治によって国が戦争へと駆り立てられていく危険が高まる時でもあります。

 「新たなナチズム」の到来を防ぐためには、権力による心の支配を拒否する人々がいなくてはなりません。心の独立がなければ、愚鈍への抵抗はないからです。

 残念ながら、「新たなナチス時代」は、すでに来てしまいました。シオニズムは現代のナチズムであり、かつての犠牲者は、現在の加害者です。

 ナザレのイエスは、権力による心の支配に、最も激しく抵抗した人です。彼は民族主義も人種主義も、決して受け入れませんでした。

 神の国は、民族も、人種も、国籍も、社会的ステイタスも超えて働く、「慈しみの心」、「憐れみの心」を持った人々によって建て上げられていくものです。

 「慈しみ」、「憐れみ」は、苦しみ、悲しみ、抑圧されている人に対して働く共通感覚であって、民族、人種、国籍、社会的ステイタスなどという境界線を知りません。

 ボンヘッファーは、絞首刑による死刑執行の直前、共に処刑される運命にあるユダヤ人たちと共に、パンを割き、分かち合います。

教会は世界のためにある。教会はこの世にあって、人々に命を与えようとするときに、神の国の共同建設者となる。映画「ボンヘッファー」の最後のシーンは、そのことを改めて教えてくれました。

 ナザレのイエスの上に働かれた神の霊が、権力による心の支配から、愚鈍による思考停止から、私たちを守ってくれますように。

 そして聖マーガレット教会を、抑圧され、悲しみ、苦しむ者たちと共に生き、命を分かち合う、神の国の共同建設者としてくれますように。