降臨節第3主日 説教

2025年12月14日(日)降臨節第3主日

イザヤ35:1-10; ヤコブ5:7-10; マタイ11:2-11

先週、降臨節第2主日に続いて、今日の福音書朗読にも、洗礼者(バプテスマの)ヨハネが登場します。

 洗礼者ヨハネは、イエス様の先生でした。イエス様は、「神の国」という言葉を、彼から初めて聞いたはずです。

 そしてイエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、ヨハネの弟子集団の一員になりました。

 しかしイエス様は、洗礼者ヨハネから教えを受け、彼の弟子になっても、自分の頭で考えることを止めませんでした。それは疑うことを止めなかったということでもあります。

 イエス様は、自分の頭で考え、洗礼者ヨハネが語る神様と神の国を疑いました。自分の頭で考え、疑った結果、イエス様は師匠であった洗礼者ヨハネの元を去って、新しい神の国運動を始めました。

 イエス様は、先生であった洗礼者ヨハネのもとに留まることを絶対視しなかった。私たちは今日、その歴史的事実に注目をしたいと思います。

 イエス様は、先生を絶対化することが無かったばかりか、ユダヤ人社会の絶対的な規範、神の掟と見做されていた律法にすら、絶対性を認めませんでした。

 イエス様は、古い教えが新しい教えよりも優れているとも、伝統が新たな発見に勝るとも、教師が絶対的だとも思っていませんでした。彼は自分の頭で考え、疑い、そして新たに見出した真理を生きる人でした。

 ところが早くも1世紀半ば以降、教会は洗礼者ヨハネに帰っていきました。そしてイエス様が捨てたもの、彼が葬ったものを「復活」させ、ました。

 バプテスマのヨハネの神の国のイメージと、イエス様の神の国のイメージの間には、橋渡し不可能な断絶があります。

 「私につまずかない人は幸いである」という言葉は、イエス様の語る神の国が、すべてのユダヤ人にとって「躓き」であったことを示しています。

 洗礼者ヨハネの弟子たちも、ユダヤ人社会の指導者たちも、メシアの到来を待ち望んでいたすべての人たちも、イエス様の神の国に躓きました。

 躓きの原因は、イエス様が示した神の愛と恵みと慈しみが、境界線を知らないということでした。

 ナザレのイエスは、師匠であった洗礼者ヨハネのもとを離れて、罪人たちが集まる食事の席に就くようになりました。

 それは、神の前で清さと正しさを追求し、それによって神の恵みと祝福を受けようとするすべてのユダヤ人にとっては絶対に受け入れられないことであり、文字通り、躓きでした。

 しかしイエス様は、汚れた者たちとの食事の中に神の国を見出し、そこに世界の造り主であり、命の与え主である神がおられることを確信しました。

 罪人たちとの食事の席に共におられる神。それこそ「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」神です。

 この神様が、すべての人を招き、豊かに養ってくださる祝宴が神の国です。

 この神の国の大パーティーは、招待を受けてやって来たすべての人が、一緒に食事の準備をし、互いの給仕となることによって実現し、完成します。

 ところが、イエス・キリストの再臨を頂点とするキリスト教の終末論は、バプテスマのヨハネの終末論を色濃く反映しています。

 イエス・キリストの再臨の時は、封印されてきた神の暴力が発動され、イエス・キリストを受け入れなかったすべての者が滅ぼされる時です。

 その結果として完成する神の国には「聖なる者たち」、「選ばれし者たち」だけがいます。

 「聖なる者たち」、「選ばれし者たち」だけが入ることを許された「神の国」は、イエス様が罪人たちとの食事の中に見出した神の国ではありません。

 教会が、早くも1世紀半ばには、ナザレのイエスからバプテスマのヨハネに帰り、ナザレのイエスが葬った律法主義が復活し、清い者を祝福し、汚れた者を呪い、敵を滅ぼす神が帰ってきました。

 この歴史的事実が示しているのは、「人は自分にだけ優しい神を求める」ということです。

 同じことを反対から言えば、自分と身内にだけではなくて、自分と敵対する者にさえ愛と恵みと祝福を注ぐ神を、人は好まないということです。 教会の歴史の中には、多くの教師が登場し、多くの教義を生み出し、多くの伝統を残しました。

 ナザレのイエスの位置を占めるようになった教師たちと、彼らが生み出した教義や伝統は、キリスト教が様々な悪と婚姻関係を結ぶことを可能にしました。

 民族主義、人種主義、帝国主義、植民地主義、覇権主義、軍国主義、他にも色々ありますが、中でも最悪のものは、キリスト教と反知性主義との結合です。

 絶対性を主張する教義や伝統は、人が自分の頭で考え、疑うことを許しません。そしてついには、真理そのものを拒絶するようになります。

 コペルニクス、ガリレオ、ダーウィンは、教会が、宇宙のことも、地球のことも、人間のことも、命のことも、実は、ほとんどわかっていなかったという現実を暴露しました。

 しかし教会は、新たに発見された真理に背を向けて、教会の教師たち、教義、伝統を守ろうとしてきました。

 反知性主義に陥った教会は、自分たちが悲劇と不幸を世界にもたらしていることも、自分たちが平和の敵として振る舞っていることも理解できません。

 それが、さらなる不幸と悲劇を生み出すことに繋がります。 私たちの主、ナザレのイエスは、自分の頭で考え、疑う人でした。教師を絶対化することも、伝統を絶対化することもありませんでした。

 私たちも、教会も、自分の頭で考え、かつての教師たちを、教義と伝統を、疑うべき時に生きているのではないでしょうか?

 この降臨節が、バプテスマのヨハネを離れ、教師たちを離れ、伝統を相対化し、ナザレのイエスその人自身に帰る時、闇を照らす光を再び見出す時となりますように。