降臨節第4主日 説教

2025年12月21日(日)降臨節第4主日

イザヤ7:10-16; ローマ1:1-7; マタイ1:18-25

私は毎年、クリスマスというのは、この世の闇を照らすまことの光を神様が与えられたことを祝う時だとお話をします。

 しかしマタイの福音書と、それからルカ福音書を書いた人は、イエス様を、闇の中から救おうとしました。

 イエス様を闇の中から救うために書かれた物語が、いわゆるクリスマス・ストーリーです。

 マリアがイエスを生んだのはティーン・エイジャーのときです。多分、今で言えば中学3年生くらい時だったでしょう。

 彼女はしがない木工職人、ヨセフという男のいいなづけでした。

 結婚相手は親同士が交渉して決めるので、マリアのいいなづけであったヨセフは、マリア自身が選んだ相手ではありません。

 結婚は個人の出来事ではなくて、家と家とが結びつく、共同体的な出来事です。

 ところがマリアは、ヨセフと結婚する前に、「誰の子かわからない子」を身ごもりました。

 子どもの父親が誰なのかは、マリア以外、誰も知りませんでした。

 「誰の子かわからない子をみごもった」ことが発覚すれば、婚約関係は、100%、破棄になります。

 さらに、神の掟と見做されていた旧約聖書の規定は、誰の子かわからない子を宿した女性を、石で打ち殺すようにと命じていました。

 たとえマリアが、ヨセフの子ではないお腹の子どもを、地元を離れ、どこか遠くの町や村で、ひっそりと生むことができたとしても、彼女に生きる術がありませんでした。

 マリア一人であれば、女奴隷として自分を売るか、娼婦になるかして、どうにか生きていくことができたかもしれません。

 けれども、乳飲み子を抱えたマリアには、どちらの選択も閉ざされていました。

 クリスマス物語の起源にあるものは、母マリアのスキャンダルです。そして、ナザレのイエスは、文字通り、望まれない命でした。

 闇の中からイエス様を救い出すために生み出されたクリスマス物語は、その現実を、私たちの目から覆い隠してしまいます。

 しかし神様は、「誰にも望まれなかった命」、ナザレのイエスを通して、闇の中に置かれた人々の間に住まうことを、「インマヌエル」となることを選ばれました。

 イエス様は後に、生まれ故郷を捨てて、血縁にも、家柄にも、社会的ステータスにも、経済力にもよらない共同体を作ろうとしました。

 神に与えられた命を喜び、神が与えられた恵みを互いに分かち合うことによって共に生きる新しいコミュニティーを、イエス様は神の国と呼びました。

 イエス様の神の国運動が、彼の子ども時代の闇、家族の中で味わった闇と、無関係であるはずはないでしょう。

 私たちが洗礼を受けて、イエス様の弟子として歩むということは、イエス様が始められたこの運動の活動家に、Activistsになるということです。

 今日、11時の礼拝の中で、3人の方が洗礼を受けて、聖マーガレット教会の家族に加えられようとしています。とても感謝なことです。

 しかし、洗礼はイエス様と共に歩む旅の出発点であって、ゴールではありません。

 洗礼を受ければ、誰もが、「公式に」クリスチャンだということになります。

 その手続きそのものは、自動車の運転免許を取るよりも、はるかに簡単です。ですから、誰でもクリスチャンになれます。

 けれども、本当に大切なことは洗礼のその先にあります。それは、イエス様に倣って生きるという、歩みです。

 イエス様に倣うためには、イエス様がどのように神様を見たのか、イエス様がどのように人を見たのか、イエス様がどのように世界を見たのかを学ぶ必要があります。

 けれども、「知る」だけで、イエス様に倣って生きられるようになるわけでもありません。

 もちろん知ることは全ての始まりです。健康的な生活をしようと思ったら、知ることから始めなくてはなりません。

 好き嫌いせず、バランスの良くなんでも食べる。よく噛む。熱いものを避ける。塩分や糖分をを控える。間食をしない。タンパク質、ビタミン類の豊富な食材を選ぶ。定期的に運動をする。お酒を飲む量だけではなく頻度を下げる。喫煙はしない。睡眠を十分に取る。などなど。

 けれども、誰もが知っているこれらのことを、実践できる人は、それほど多くはないでしょう。

 「医者の不養生」という言葉が示しているように、健康に関する知識があっても、健康的な生活を送れない人は沢山います。

 イエス様の弟子として、イエス様から学び、神の国を建て上げるために生きること、それは共同体の業です。

 神は私たちを、さらにこの日、3人の新たな仲間たちを、暗闇の中から呼び出されました。

 それは、「望まれない命」を、この世が捨てようとしている命を、「聖霊によって」与えられた命として、神の愛の中に生まれた者として受け止め、育み、共に生きることを喜ぶためです。

 第2次世界大戦の終焉からわずか80年後、またしても、自分の利益と特権を求めて世界を破壊し、平和を破壊する醜悪な人間たちによる支配を、群衆が受け入れる時代となりました。

 その結果、圧倒的に多くの命が、経済ピラミッドの頂点の1%にいる金持ち以外の命が、「望まれない命」と化している世界に、私たちは生きています。 しかしクリスマスの希望の光は、この世が望まない命を、この世の支配者が、この国の政治家が切り捨てようとしている命を、神様が慈しみ、探し出し、希望と喜びを与えようとしておられる、というところにあります。

 私たちはもう、自分たちだけで、年中行事的なクリスマスの浮かれ気分を味わおうとすることをやめて、新たなクリスマスの迎え方を模索するべきできないでしょうか?

 ひとり親家庭や貧困家庭の子どもたち、難民申請者や外国人技能実習生たちと共にクリスマスを喜ぶために、私たちにできることがないでしょうか。

 新たに洗礼を受ける仲間たちと共に、この宿題をもって、今年のクリスマスを迎えたいと思います。