降誕日第1聖餐式 説教

2025年12月24日(水)降誕日第1聖餐式

イザヤ9:1-6; テトス2:11-14; ルカ2:1-14

クリスマスおめでとうございます。

私は日曜学校育ちなので、頭の中に、降誕劇で見ているストーリーが刷り込まれています。

 降誕劇のストーリーのほとんどは、ルカ福音書1章5節から2章21節までの物語に、マタイ福音書1章18節から2章23節までを適当に合体させて作られています。

 しかしマタイ福音書とルカ福音書は、そもそもまったく別の物語として書かれているので、福音書のテキストを詳しく見てみると、降誕劇のクリスマス物語とは辻褄の合わないところが、ゾロゾロと出て来ます。

 例えば、降誕劇に欠かせない東方の博士たちですが、彼らはマタイ福音書にしか出て来ません。

 しかも東方の博士たちが、何人のキャラバン隊であったのかは、テキストに書かれていません。東方の博士たちが捧げた宝物が、黄金、乳香、没薬の3つだったので、そこからの類推で博士は3人だと思われるにうになっただけです。

 更に、東方の博士たちがイエス様を見つけた場所は、馬小屋でも家畜小屋でもありません。ただの家です。

 マタイ福音書版のクリスマス物語を読んで、日曜学校育ちのクリスチャンが一番大きな衝撃を受けるところは、天使ガブリエルによる受胎告知が無いことです。

 マタイ福音書で「お告げ」を受けるのは、いいなづけのヨセフだけです。しかも無名の天使が、ヨセフの夢に現れてこう告げるだけです。

 「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:20, 21)

 マリアに対する言葉は何もありません。

 実は、マタイ版のクリスマス物語では、マリアに天使は現れません。東方の博士たちが帰った後、天使が再びヨセフの夢に現れて、エジプトに逃げるようにと命じます。

 ヘロデ大王が死んだ後も、天使はヨセフの夢に現れて、ユダヤへ帰るようにと命じます。

 この後に更にもう一度、天使はヨセフに現れたと言われていますが、マリアの前に天使が現れることは、一度たりともありません。

 マタイ版のクリスマス物語の主人公は、徹頭徹尾、ヨセフであって、マリアは背景に隠れたまま、表に出てくることはありません。

 今晩の福音書朗読で読まれたルカ福音書の著者は、マタイ福音書の著者とは違う戦略と意図を持って、クリスマス物語を書いています。

 1節から7節のエピソードの中で、ヨセフとマリアは住民登録のためにベツレヘムに向かったことになっていますが、それは歴史的にはあり得ないことです。

 住民登録は徴兵と徴税のために行われるので、住民登録は必ず居住地で行われます。

 歴史的に言えば、マリアとヨセフは居住地であるナザレで住民登録をしているはずで、イエス様の出身地はナザレであって、ベツレヘムではありません。

 しかし、メシアの到来を待望していたユダヤ人たちの中には、メシアはダビデの子孫で、ダビデの出身地であるベツレヘムから出てこなくてはならないと考えている人たちが少なからずいました。

 ルカ福音書の著者とマタイ福音書の著者は、ナザレ出身のメシアなどあり得ないという人々に対する「反論」として、イエス様をベツレヘム出身とする護教論的物語を書きました。

 ルカ福音書のクリスマス物語の中で、本当に重要なことは、イエス様の出生地ではなく、マリアとヨセフの、そしてイエス様を最初に見出す羊飼いたちの社会的ステイタスです。

 まず、ルカ福音書の著者は、マリアとヨセフを、経済ピラミッドの最底辺に置かれた、貧しい夫婦として描いています。

 7節の、「宿屋には彼らの泊まる所がなかった」という部分は、原文のギリシア語では「客室に彼らの場所は無かった」となっています。

 私たちは降誕劇に馴染んでいるので、マリアとヨセフが家畜小屋に泊まることになったのは、客室が全て埋まっていたからだと思い込んでいます。

 しかし、恐らくテキストのこの箇所が言わんとしているのは、マリアとヨセフは、部屋代を払えなかったということだと思います。

 2章24節に、マリアとヨセフが、初子の聖別のいけにえとして、「山鳩一つがいか若い家鳩二羽」を献げようとしていたと書かれていることも、この読み方を裏付けていると思います。

 というのは、山鳩と家鳩は、いけにえとして献げる動物の中で、もっとも安い動物だったからです。

 さらに、イエス様のもとを最初に訪れた羊飼いたちは、単なる職業を表しているのではありません。

 マリアとヨセフは、皇帝アウグストゥスから発せられた、住民登録をせよという勅令に従って、ベツレヘムまで旅をしたことになっていますが、羊飼いはたちは、住民登録の対象にすらなりませんでした。

その上、彼らが夜通し、寝ずに番をし、世話をしている羊たちは、彼らの財産ではありません。羊飼いたちは、資産家の財産管理を任された、最低賃金請負い労働者なのです。

 羊飼いたちに羊の番を任せている金持ちたちは、羊飼いを汚れた存在と見做して軽蔑し、嫌っていました。

 羊の世話を任された羊飼いたちは、律法の掟に従って生活することなどできません。彼らは羊のリズムに合わせて、羊と一緒に生活をしているわけですから、毎日決まった時間にお祈りをすることも、安息日に仕事を休むこともできません。

 そのために羊飼いたちは、律法に従って生活をしない、汚れた、神に呪われた存在とみなされていたのです。

彼らは人として数えられず、社会に属さず、むしろ社会の秩序を危険に晒す「よそ者」であり、「排除すべき者たち」とみなされていました。彼らは、ローマ帝国にも、ユダヤ人社会にも、存在を認められない存在でした。

 羊飼いたちの境遇は、北海道の農業労働を担っているネパール人たちの境遇に、実によく似ています。

 2年近く前、災害対策を専門とする国交相の友人と話をしていたとき、北海道の農業労働の大部分を、ネパール人が担っているということを、私は初めて聞きました。

 私が最も驚いたのは、このネパール人の農業従事者たちが、法律的には、日本に労働者としては存在しないことになっているという点でした。

 彼らを就労者として正式に受け入れれば、日本の法律を適用し、最低賃金も、労働条件も、健康保険補償しなくてはならなくなります。

 そうなれば、彼らを安い労働力として使うことはできなくなります。作業中に怪我をすれば、その補償もしなくてはなりません。

 しかし、彼らが存在しないことにしておけば、発覚した時には「不法就労者」として扱い、怪我をしたときには何も補償せずに、「違法滞在者」として強制送還するだけで済みます。

 そこに居るのにいないことになっており、日本人のやりたくないことをやっているのに「よそ者」、「不法滞在外国人」として排斥される人々。

 光の到来を天使から告げられ、そして光を見出すのは彼らです。

皇帝やユダヤ人指導者は、闇の創造者であって、彼らにとっては闇が光です。闇を光とする者たちの中に神はおらず、そこで光に出会うこともありません。

 私たちの間に、マリアとヨセフがいるでしょうか。私たちの間に、羊飼いたちがいるでしょうか。

 光に出会うために、神様が私たちをマリアとヨセフのもとに、そして羊飼いのもとに、私たちを招いてくださいますように。