顕現後第1主日・主イエス洗礼の日 説教

2026年01月11日(日)顕現後第1主日・主イエス洗礼の日

イザヤ42:1-9; 使徒10:34-43; マタイ3:13-17

私は2022年の4月から、聖マーガレット教会の牧師と、学校チャプレンを兼任するようになりました。

 夏には、キャンプにも同行するんですが、昨年の夏は初めて、高校3年生のキャンプで箱根に行きました。

 どんな話の流れからだったか、キャンプ中、生徒の一人から、こんなコメントがありました。

 「チャプレンはイエス推しで、礼拝っていうのは、要は推し活でしょ?そりゃ楽しいはずだよね。」

 いや、上手いこと言うもんだなと思いました。自分はイエス推しだというところまでは考えたことがありました。

 でも、礼拝が推し活という視点は、私にはまったくありませんでした。視点が鋭いというか、まったく思いもよらぬ捉え方に、「な~るほどね~」と、いたく感心しました。

 そして、実は、この「推し活」という視点は、福音書の物語を解読するための、大きな助けになります。

 イエス推しの、イエス推しによる、イエス押しのための物語。それが福音書です。

 新約聖書の中には、福音書と呼ばれる書物が4つあります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つです。そして、「洗礼者ヨハネ/バプテスマのヨハネ」は、すべての福音書に登場します。

 ところがイエス様がヨハネから洗礼を受けたという話しは、厳密に言うと、2つの福音書にしかありません。マルコ福音書とマタイ福音書です。

 ルカ福音書には、イエス様が民衆と共に洗礼を受けた(3:19-22)と書かれていますが、非常に不思議なことに、誰から洗礼を受けたのかは書かれていません。

 そんなの「洗礼者ヨハネからに決まってるじゃないか」と思われるかもしれませんが、彼は、群衆とイエス様が洗礼を受ける前に、ヘロデ・アンティパスによって投獄されています。

 ですから、物語の流れに沿って言えば、ヨハネがイエス様に洗礼を授けることはできません。

 さらに、ヨハネ福音書では、イエス様は洗礼を受けてすらいません。

 そして今日の福音書朗読で読まれたマタイの福音書には、イエス様が洗礼を受けようとした時に、ヨハネがそれを思いとどまらせようとしたと書かれています。

 マタイ福音書とルカ福音書のネタ本はマルコ福音書ですが、そこには洗礼を受けようとするイエス様を、ヨハネが思い留まらせようとする話しはありません。

 イエス推しの、イエス推しによる、イエス押しのための物語が福音書だ。

 これを念頭にイエス様の洗礼物語を読み、イエス様とバプテスマのヨハネとの関係を解読すると、福音書の著者たちが、非常に困っているということに気づきます。

 イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたことは、確実に、歴史的な出来事です。

 ところが、マタイの福音書が書かれた80年代には、イエス様を直接に知っている人は、恐らく一人も残っていません。

 それは、ナザレのイエスという人の姿が見えなくなって、キリスト教の教義が発展するプロセスと重なります。

 今日の第2朗読で読まれた使徒言行録10章42節と43節にはこうあります。

 「42 そしてイエスは、ご自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、私たちにお命じになりました。43 イエスについては、預言者も皆、この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

 イエス様によって罪が赦されるという神学は、「イエス様は罪のないお方だったのだ」という神学とセットになっています。

 ところが、歴史的人物としてのイエス様は、罪を告白して、バプテスマのヨハネから罪の赦しのための洗礼を受けています。

 第3世代、第4世代となった「イエス推し」たちは、ナザレのイエスを知らない、教義しか知らないイエス推しです。

 彼らにとって、「罪なきイエス・キリスト」が、「罪を告白して、バプテスマのヨハネから罪の赦しのための洗礼を受けた」ということは、非常にまずいことでした。

 歴史的事実であったとしても、「そのまま」受け入れることができなくなっていました。

 福音書に描かれているイエス様の洗礼物語と、イエス様と洗礼者ヨハネとの関係を描く物語は、「罪なきイエス・キリスト」の栄誉を守るための、イエス推したちの努力の結晶なんです。

 ところがここには、大きな副作用もあります。それは、護教論として発展した教義が、ナザレのイエスの姿を覆い隠すという副作用です。

 護教論は自己弁護です。護教論は常に、自分たちは正しく、自分たちと違うことを言う者たちは間違っていると言います。

 護教論の中に、イエス様が宣べ伝えた神の国はありません。イエス様がそこに神の国を見た、罪人たちとの食事もありません。

 だからニケヤ信経も使徒信経も、処女マリアから生まれたイエス様を、ただちに十字架につけるんです。

 私は、小学校の教員会の冒頭に、先生たちに向けて短いお話をします。8日の木曜日にも教員会があって、そこではこうお話をしました。

 自称クリスチャンたちが、世界中に戦争をばら撒き、平和を破壊し、闇を深くしているのは、教会も、自称クリスチャンたちも、キリスト教に出会っているだけで、イエス様に出会っていないからだ。

 するとすかさず校長先生から、こう質問が返って来ました。「キリスト教を通してイエス様に出会わないとしたら、何に出会うんですか?」

 私の答えは、「キリスト教に出会っているんではないでしょうか」でした。

 歴史的キリスト教を通してナザレのイエスに出会わない。そう思っているのは、私だけではありません。

 先週、7日の水曜日、私は上石神井のイエズス会修道院を訪れて、久しぶりに恩師に会って来ました。

 私の恩師は、本や論文に書いた内容や、講演で話したことが「異端だ!」と言われて、何度もヴァチカンに訴えられてきた人です。

 日本で教えられなくなってスペインに飛ばされ、スペインで教えられなくなって再び日本に飛ばされ、スペインの教会からは、スペインにもう来るなと言われ、それでもめげずに、大学や研究所の求めに応じてこっそりとスペインに講演に出かける。そんな規格外の人です。

 恩師と私とは、まったく別々の道を進んできましたが、二人とも、ナザレのイエスに出会うために、彼を通して現れた神様に出会うために、教会とキリスト教の解体的出直しがなくてはならないというところに辿り着いていました。

 歴史的キリスト教が終焉を迎えたとしても、Jesus movementは、いつでも再始動できます。

 なぜなら、私たちがナザレのイエスに帰る時、イエス様の上に働き、イエス様を死から新しい命に起こされ、Jesus movementを始動させた神様に出会えるからです。

 人々は、平気で人を殺せるクリスチャンの姿に、戦争を支える教会に躓いています。

 しかしクリスチャンと教会に躓く人たちが、ナザレのイエスの姿に惹かれます。

 それを私は、学校の保護者の方たちとの勉強会の中で、ひしひしと感じます。私の知る限り、参加者の中に、クリスチャンはいません。

 けれども、参加されている方々が、ナザレのイエスの言葉に、彼の生き方に、そして彼を通して働かれた神様に惹きつけられるんです。

「ここで私たちに話してくれていることを、生徒たちにも話して欲しい」とも言われます。(あんまり大きな声では言えませんが、特に中学・高校の生徒たちの多くが、キリスト教の授業に躓きます。)

 歴史的キリスト教が終わっても、Jesus movementは終りません。彼が始めた神の国も終りません。

 そして、ナザレのイエスに帰る時、死を超える新しい命の希望も、新たに輝きます。

2026年が、ナザレのイエスに出会う年でありますように。