顕現後第2主日 説教

顕現後第2主日(A年)2026年1月18日

イザヤ49:1-7; Iコリント1:1-9; ヨハネ1:29-42

 私は先週日曜日の説教の中で、福音書は、イエス推しの、イエス推しによる、イエス押しのための物語で、「推し活」という視点が、福音書を解読する鍵を握っているというお話しをしました。

 今日の福音書朗読の物語も、「推し活」目線で読むと、謎が解けます。

 ヨハネの福音書は、4つの福音書の中で、最も非歴史的で、最も思弁的で、もっとも神学的な福音書です。

 ところが、極めて思弁的で、神学的で、非歴史的な福音書の行間に、他の福音書からは見えない、様々な歴史的真実が垣間見えます。

 今日の福音書朗読の35節から42節は、Jesus movementの中に、洗礼者ヨハネの弟子集団から転向した人たちがいたことを示しています。

 ペトロの兄弟アンデレが、元々は洗礼者ヨハネの弟子だったと告げているのは、ヨハネ福音書だけです。

 ヨハネ福音書が書かれたのは紀元後1世紀後半、90年代のことですが、その時代にも、洗礼者ヨハネの弟子集団が存在していました。

 そしてテキストの歴史的背景には、「ヨハネ推し vs イエス推し」というライヴァル関係があるんです。

 「推し活」をしている人は、自分の推しが、同業他者よりも活躍することを願っています。

 同じグループに、同じ業界にいる人たちの中で、他の誰でも無く、「この人」にのしあがって欲しいと思っています。

 それが進むと、自分の推しのライヴァルになりそうな人を引きずり下ろしたいと思ったり、失敗を喜んだりするようになったりもします。

 こうした心理的な動きとか傾向は、1世紀後半のイエス推しとヨハネ推したちにもあります。

 ヨハネ推し集団は、「ナザレのイエスは、オレたちの師匠から洗礼を受けて、弟子入りしたんだ。当然、オレたちの師匠の方が偉いに決まってる!メシアはオレたちの師匠だ!」、そう思っています。

 対するイエス推したちは、イエス様を洗礼者ヨハネの権威から解放して、ヨハネをイエス様の権威に従わせたいと思っています。

 今日の福音書朗読の物語は、この2つのことを、同時にしようとしているんです。

 私は聖マーガレット教会の牧師になって約3年後、丁度6年前の2020年1月に、今日と同じ顕現後2主日の説教準備のために、今日と同じ福音書の箇所を読んでいました。

 そのときに「ん?何かがおかしい」と感じました。私の頭の中ではずっと、イエス様の洗礼と、霊が鳩のように降ってくるという出来事は、ワンセットになっていました。

 ヨハネ福音書1章32節には、「私は、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」という洗礼者ヨハネの言葉があります。

 ところが、この前後のどこにも、イエス様がヨハネから洗礼を受ける場面がないんです!

 ヨハネ福音書の著者は、イエス様の洗礼について一切書かないことで、イエス様を洗礼者ヨハネから解放しようとしたのです。

 マルコ福音書とマタイ福音書は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたと書いてしまっています。

 ルカは、誰から洗礼を受けたかは隠していますが、イエス様が群衆と一緒に洗礼を受けたことは書いてしまっています。

ヨハネ福音書の著者は、イエス様が洗礼を受けている限り、名前を隠しても、バプテスマのヨハネの権威から、イエス様を解放することはできないと考えました。

 なぜなら、洗礼は、洗礼者ヨハネが語る、罪の告白を条件にしているからです。

 そこで、ヨハネ福音書は、イエス様の洗礼そのものを消し去ることで、イエス様をバプテスマのヨハネの権威から「解放」することにしました。

 すでに触れた、35節以下の、元ヨハネ推しの二人が、イエス推しに転向する話は、イエス様の権威にヨハネを従わせようとする試みです。

 ここで洗礼者ヨハネは、自分の2人の弟子たちに対して、イエス様を「神の子羊」として示します。

 アンデレともう一人の弟子は、それを受けて、イエス推しに転向したように描かれています。

 さて、今日の福音書朗読のテキストが、イエス様を洗礼者ヨハネの権威から解放し、ヨハネをイエス様の権威に従わせることを意図していることは確かです。

 では、この「ヨハネ推し vs イエス推し」という対立から生まれたテキストのどこに、私たちはナザレのイエスが語った神様を見出すことができるでしょうか?

 私は、29節の「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」という言葉の背後に隠れた、ナザレのイエスの姿を見るべきだと思います。

 「イエス・キリストは、私たちの罪が赦されるための生贄だ」という教義とそれを支える神学は、ナザレのイエスその人が語った言葉と、生き方と、彼が示した神からの逸脱です。

 「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉の背後には、罪の赦しの教義や神学よりも、ずっと根源的な、ナザレのイエスの言葉と生き方が隠れています。

 ナザレのイエスは、教会の罪の赦しの教義とはまったく違う形で、「世の罪」を除きました。

 ヨハネの洗礼は、来るべき神の怒りを免れるための清めでした。

 ヨハネが語った神の国は、汚れた者たちは火で焼かれて滅ぼされ、洗礼によって清められた禁欲主義者だけが入ることを許されるところでした。

 それに対して、イエス様の周りに集まった人たちの大部分は、「清い者競争」に参加できない人たちと、そこから離脱した人たちでした。

 混血の親、外国人の親、汚れた職業の親を持つ者は、律法に基づく清い者競争に参加できません。その出自からしてすでに汚れているからです。

 徴税人、市場で商売をする者、ロバ使い、ラクダ使い、皮なめし職人、金貸し、娼婦は、清い者競争から離脱した、呪われた者たちです。

 しかしナザレのイエスは、自分の周りに集まってきた、出自からして汚れた者たち、清い者競争から離脱し呪われた者たちを、自分の家族と呼びました。

 神殿と律法が「すでに死んだ者」、「死体と同じように汚れたもの」と定めた人たちを、ナザレのイエスは神に招かれた者として共に食卓につかせ、神殿と律法を無効にして、「世の罪を」除きました。

 イエス様と共に食卓についた者たちは、神の恵みと祝福と慈しみによって、神殿と律法の呪いと滅びから救われたのです。

 差別主義が社会の空気となってしまった日本社会で、私たちが祈り、願い求めるべきことは、「どうやって、今、ここにいない人たちを、食卓に招けるか?」ではないでしょうか。

 政治家、民族主義者、差別主義者たちが「よそ者」として排除する人たちを、聖マーガレット教会の中に招き、一つのコミュニティーとなることは、「世の罪を除く」ナザレのイエスの働きに参与することになるのではないでしょうか?